02/06/2026
大宰問於子貢曰、夫子聖者與。何其多能也。
子貢曰、固天縱之將聖。又多能也。
子聞之曰、大宰知我乎。吾少也賤。
故多能鄙事。君子多乎哉、不多也。
牢曰、子云、吾不試、故藝。
大宰(たいさい)、子貢(しこう)に問(と)いて曰(いわ)く
夫子(ふうし)は聖者(せいじゃ)か。何(なんぞ)其(それ)多能(たのう)なるや。
子貢、曰く、固(もと)より天(てん)、之(これ)を縦(ゆる)して将(まさ)に
聖(せい)ならんとす。又(また)多能(たのう)なり。
子(し)之を聞(きき)て曰く、大宰(たいさい)は我(われ)を知(し)るか。
吾(われ)少(わか)くして賤(いや)し。故(ゆえ)に鄙事(ひじ)に多能(たのう)なり。
君子(くんし)は多(た)ならんや、多ならざるなり。牢(ろう)曰く、子云(い)う、
吾試(もち)いられず、故(ゆえ)に芸(げい)あり、と。
伊與田覺先生の解釈です。
大宰(呉の大臣か)「孔先生は聖人なのでしょうか。何という多能な方でありましょうか」
子貢はそれに対して言った。
「勿論天が生まれながらに聖人となることを許しているのです。しかもその上に多能でもあられます」
先師はこれを聞かれて言われた。
「大宰は私をよく知っているものであろうか。
私は若い頃、地位も低く貧しかったので、つまらないことがいろいろ出来るのだ。
君子は多能であることが必要だろうか。いや多能なことなどいらない」
渋沢先生の講義からの抜粋です。
そもそも「多能」が、つまり、何でもかんでもこなせるというのは、聖人の本道でないとしても、それが出来るくらいの様々な経験がある人でないと、本当の聖人にはなれないものだ。
経験が無いと、知恵や才覚に乏しく、世間の競争にも耐えられず、右肩下がりの道を歩むしかなくなってしまう。
やはり、経験は重要な環境整備と考えます。
省みた時、自らの周りも、社会全体も、経験(失敗)がし難い環境を憂います。
自らの周りだけでも、環境整備は試みているつもりです。