03/05/2026
【キング堂創業百周年記念企画】
創業者 神藤金太郎 自伝
「私の歩いた道20人集」(現代信濃人物誌敢行会/昭和50年刊)より
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◆はじめに
有限会社キング堂は令和8年2月1日に創業百年を迎えました。大正15年(1926年)2月1日に創業者である祖父神藤金太郎は現在の飯田銀座の地に店を起こしています。
百年の間には、大きな火災よる類焼(全焼)を2度経験するなど、時代の幾多の荒波にさらされながらもなんとか存続してきました。
先日、2年前に亡くなった父・神藤偉司(3代目社長)の本棚を整理していたところ「私の歩いた道」という祖父の自伝本が出てきました。この本の発刊時、私は中学生でした。出版社企画の書籍とはいえ、祖父が声を掛けられたことに当時の私は少し誇らしく思ったことを覚えています。
いま読み返してみると、祖父の生い立ちや家族のルーツが鮮明に見えてくるだけではなく、飯田地域の郷土史に関わる非常に興味深い資料に思われました。
弊社キング堂創業百周年を記念して期間限定で掲載します。
(神藤光裕|有限会社キング堂 代表取締役)
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神藤 金太郎(じんどう きんたろう)
明治三十六年一月二十八日、長野県飯田市下羽場で、父・佐吉、母・てつの七男として生まれた。家業は農業のほか製紙、精米等を営むも、大家族のため小学校卒後直ちに市内の紙問屋に入り九年余を勤める。上京して製本所に勤めるも、家人の懇請により帰郷、独りで文房具店を開く。以来、文具関係の専門家として飯田文具商組合長、銀座商栄会はもとより地域社会の奉仕に挺身、水ノ手線道路改修期成同盟会会長、飯田ロータリークラブ会長、飯田リンクストア事業協同組合長その他を歴任、現在はキング堂社長、飯田商工会議所金融税制審議委員、同小売委員、飯田法人会第五部長その他。中小企業庁長官賞も受けたが、書画もよくし日本南画院会員(入選四、入賞一)、龍峡書道会師範、同赤石会長。現在、久夫人と飯田市に暮らす。(平成7年没/享年93歳)
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キング堂創業者 神藤金太郎 自伝
「私の歩いた道20人集」(現代信濃人物誌敢行会/昭和50年刊)より
【好評だった飯田の紙】
男ばかりズラリ八人の兄弟は、いかに昔とはいえ、そうザラにはなかった。 上から甚一郎、東一、兼松、四〜五番目は米太郎、米次郎、松太郎、そして私、末弟は順番そのものの名で八郎である。私の"金太郎"は何によるのか、ハ、マサカリ担いだ金太郎……の歌や、丸に金の字で浮く腹巻の絵が、人々に想像されて、どこそこおかしいようである。
金太郎サンは健康的な肥満児だが、私は小柄で痩身、特にどこが悪いというのではないが、子供時分からいささか蒲柳の質だった。
それでもけっこう人並みには働け、山登りもすれば毎朝十数年このかた矢場に通って弓に励んだり(弓道三段)、長生きしてまだこう動き続けていられるのだから、いわば"一病息災"の伝か、弱いというのは必ずしも当たらないようでもある。
八人からの子供を抱えると、世帯のやりくりはそれは大変なえらさだった。母は子びとね(育て)で追いまくられていた。
家中働きまくっても、なお裕福とは遠かった。祖父の代に三州豊橋からここ――飯田市*下羽場(通称城下)に移って百姓を始め、父は、それだけではやっていけないと賃搗き(米)の水車も手掛けた。
祖父がこの地を選んだのは、豊橋と飯田とは古くからいろいろ交流はあり、それと、飯田を暮らしよい土地と踏んだためだろう。
水車は谷川の支流に架けた。私が十四、五の頃まであった谷川の水車は、父がやっていた当時の数は六、七軒。今想えば懐かしい風物詩だ。
石臼が並び、ゴトンゴトン、杵の音が賑やかな水車小屋であった。主として穀屋の仕事をしていた。飯田の米搗きは殆どここで、今様にいえば飯田の精米団地だったのだ。
搗く米は馬場町の、遊廓(二本松)を囲む柵の下の道へ、馬車なり大八車なりで届けられ、これを下へ運び下すのだが、私も度々この重いサンダワラ(米俵)を背負駄で担いだ。搗きあがると又道の頭へ担ぎ上げた。
水車はそのうちに機械の普及で一軒消え二軒消え、やがて完全に消滅した。もはや無用の石臼が、そこいらにゴロゴロ転がっていた。
水車のほか、紙漉きもやった。これは冬場の仕事だった。これにも谷川が役立った。
ボロ紙を集め、漉き直して「スキナオシ」と称したつまりは再生紙を作るのだった。味噌釜のような大釜で煮、湯にソーダを加え、煮溶けたのを絞って臼で餅状に搗き、
それを笊に入れ、池に漬けて竹の棒で掻きまわしながら漂白した。
これを六尺×四尺のフネに流し込み、竹の簀を重ねたり、取り易いよう端へ萓草を入れたり、ジャッキで圧して水分を除ったり、麺棒で丸めたり、ユゴの刷毛(三角頭の藁の箒)で板へ貼り付け、漸く一枚の紙になる。
チリ紙作りなのだが、たいそうな手間が掛かった。出来た紙を四十枚重ね、仕切りを挟んでは一束で帯をし、さらにこれを二十束位にたばねた。態裁を良くするために、切口の毛を鋸で周囲にケバ立てて出したりした。
工夫に長じていた長兄が、仕上げをもっと能率的にした。大判で漉き、裁断をずっと綺麗にする方法であった。しかし、これは、ケバ立っているのより不評で、やはり長年の習慣かケバが出ていないと売れないのだった。
コウゾや桑皮の繊維で作った飯田地方の紙は、かなり質の高い物だった。
「飯田の紙は懐中にして旅をしても、いつまでもシャッキリしていて崩れない」と好評で、豊橋方面から注文が来ていたほどだ。白漉きというのがAクラスの紙、ちょっと色のつかえたのが中漉き、一番の下等紙を駄漉きと呼んでいた。もう一つ、クズ紙というのがあった。これはコウゾの表皮――俗に皮クソといったが、を刻んでボロ紙と一緒にして漉いた物だ。二十五束を一本といった。 障子紙や中折は百帖を一本と言い、障子紙は障子の規格に合わせ、八寸八分とか九寸、九寸二分といった具合に漉いていた。
ボロ紙の選別などで、子供の私も遊ぶ暇がなかったが、なかなか面白い作業だった。もっとも、私は選別にかかりっきりだったのではなく、兄の子の子守がたいてい私に振り当てられていた。
ボロ紙にはいろんなものが混じっていた。マンガはあるは、チャンバラの写真はあるいは、子供心の興味を大いにそそった。
習字の紙がふんだんには買えないので、断ち屑を溜めておいて自習に使ったが、墨の吸い込みが早過ぎ、とうてい本格的な練習には向かなかった。
全国的に飯田の名を売った元結い。これが発達したのも、そもそも地元産の良質紙が得られたからだ。腰のない紙だと、髪結いさんが力をこめて結ぶ際に切れてしまう。
【袴 譚】
絣(着物)に三尺(帯)が当時の小供の姿だった。襟や袖口を鼻水や涎でピカピカ光らせて育った。いまどきこんな子はいない。
小学校二年生の時、大家族の口減らし策でもあったのだろう。本町二丁目の伊賀屋へ奉公(小僧)にやらされた。
家中テンテコ舞いで働いても、百姓に紙漉きに米搗きに養蚕、長兄は請けで郵便物の運送もやったが、それでもなお生活は楽というわけにはいかなかったのだ。
兄・兼松が、既に伊賀屋に勤めていたし、伊賀屋へ出入りのある婆さんが、私も奉公させるよう極力両親に勧めたのだった。いかに近くとはいえ、私は七歳。可哀想なようでもあったが、当時の庶民感覚からすれば、さほどとりたてての珍事でもなかった。
伊賀屋では、二階で人形をこしらえていた。膠(にかわ)の匂いが濃厚で、数十年星霜をけみした今でも、想い出すとふと鼻先にあの匂いが漂うようだ。五月には鯉のぼり作りで、布地や紙に描かれていくところを見ているのは楽しかった。
私はまだ役に立つ年でもなく、お爺さんの酒買いに酒屋へ行ったり、お婆さんの肩がこると、薬屋へ行ってヒルを買った。
川や田圃にいるヒルを、生きたまま薬屋で売っていた。これが肩こりの何よりの特効薬で、肩に吸い付かせてフル血を腹いっぱい吸わせていたのである。今の人たちには想像もつくまい。
本町一、二丁目は卸し問屋の街だった。油屋、砂糖屋、呉服屋、肥料屋、紙屋等が広い間口の軒を連ねていた。本町は問屋街、知久町は小売店街の趣があった。
私の通う小学校は追手町だった。それに別に意味は無いが、朝、伊賀屋を出て、それも当然なことなのだが、本町を抜けるのに実は一苦労だったのである。
問屋街である本町には、遠山方面や駒場方面からの荷受けの馬が、朝早くから来て止まっていた。これが幼い私にとってまたとない難物なのだった。
駄馬とはいえ、栄養たっぷりで逞しく太ったのが、十頭、二十頭と路上にユラユラ動いている。蹴られでもしたら、小さな者などイチコロの物々しさ。
手綱の端を、道に石で抑えてある。本気で暴れたら置き石など吹っ飛ぶだろう。馬と馬の垣の中を、どう潜って行ったらよいか……。ビクビクしながら、さんざん頭を捻くり、無事通り抜けて 広小路へ出ると、長い長い溜息だった。
井戸柝(ひょうしぎ)の上で炭を割っていて、金槌を井戸へ落として叱られたこともあったが、伊賀屋では私を可愛がってくれていた。
七月にハシカに罹った。家に帰って治したのだが、そのままずっと家にいて、小学校六年を卒業した。伊賀屋へ戻る気になれなかったし、別段理由はないがそこが子供で、伊賀屋でも私が是非にも入用というわけでもなく、ずるずるそうなったのだ。
卒業してみれば、家にいられる身ではなし、伊賀屋の時間様おむらさんというお婆さんの口ききで、知久町の宮内紙店へ奉公に入った。(この娘さんを残して伊賀屋の跡は絶えている)
小学校の仲間は、高等科や中学へ進んだのに、尋常科で終わった私は、なんとか勉強しなければ……肩身が狭いと、夜、仕事が終わってから布団に隠れて独学した。
店では、勉強したがる私の胸中を察して、松濤義塾への通学を許してくれた。松濤義塾が主税町へ移転する時は、昼間も店を休ませてくれ、松川から石など運び基礎工事の手伝いをした。
塾経営者の松村蓬麻先生は学問的にも人間的にも優れた方であった。漢字と英語を教え、書は大家、詩吟もよくした。単に学者というだけでなく人間性も豊富、多彩な哲学者であった。
先生は通学時の服装にやかましかった。上等の物を着ろとかゴタゴタ飾れというのではなく、袴の着用を厳命した。きちんとしていないと心の状態にもとかく乱れが生じるからだ。
ところが私は袴を持っていなかった。店の仲間も持っていないし、そこで、店の親類で鼎・下茶屋で元結問屋の井口主人の御好意で貸して貰えた。が、店では、店から穿いて出てはいけないという。仰々しいし、奉公人の身分にふさわしくない。
止むなくは袴を抱えて出ては、今の合同庁舎、西川印刷所の脇にあった共同便所で穿いた。杉浦重剛の高弟である松村先生の教えを受けるためには、これくらいの威儀の正しかたは、まあ当然であったといえよう。
夜の通学 の本科生には信州経済新聞社の熊谷重一さん、松尾の丸山治郎さん等を始め、卒業生は数知れず名を成し、現在実業界に活躍されている方々も大勢います。
幹事には広小路の黒沢弥三郎、小池勘次郎、本町の松沢さん等がいた。 山車の本田さんとか、新潟から出て来て吾妻町の穀屋今川さんの所に勤めていた人などがいた。
義塾にはほぼ一年通った。何を聞いたか覚えたか、その辺は漠然として定かではないが、松村先生のおかげで、少しは何か身に付いた――ような気がしないでもない。
【大正十一年の大火】
宮内紙店に入店したのは、大正四年の五月二日だった。同店での想い出は際限もないが、特に衝撃的な印象といえば、大正十一年五月四日の大火であろう。
午後九時、愛宕坂からの出火であった。罹災地帯は知久町、本町、常盤町、広小路、主税町、扇町の広範囲で、焼失家屋は三百五十八戸に達した。店(宮内紙店)が焼けたのは早い時刻の方だった。
いったんはさほどの大火に至らず消えたあんばいで、私は店の主人の弟で、愛宕坂にいた人と荷物を運び出し、下火となり安心して店に戻った矢先に燃え出し、これでみるみる本格的な大火となったのだった。
三時頃の鎮火であったが、五時頃、焼け残った店の土蔵の廂にチロチロと炎が這った。土蔵の扉や小窓の縁は、私がとっさの機転で赤味噌を塗り込め塞いでおいた。せっかく残った土蔵が……、幸い近くに大鹿村の消防団がたむろしていたのに気付き、走って行って消火を頼み、くい止めることが出来た。
猛火に包まれた土蔵を救ったのは、味噌の塗り潰しも一役買ったが、井戸と、軒端を流れる御用水(水路、所々に穴が開けてあり、洗い場としてもしていた)それと蔵裏の大きな松の木、横の梨の木等のたまものであったようだ。
梨の木が、豊かに茂る街並みであった。本町、松尾町、知久町一帯にかけてあった。緑の連なる街並みは、たしかに小京都の名に恥じなかった。
主人はたまたま上京中で留守だった。町内の青年数人と、東京・上野で開催されていた平和博覧会の見物に行っていたのである。主人留守中の変事だった。
店のお勝手(経済)はやりくりが楽でない頃だった。その前に間口から一間通りを百十七銀行に売ったりしていた。それでも火事の頃には大分立ち直ってはいたのだが、その矢先の災難でまた復興が大変だった。
主人はどっちかというと、店よりも町の仕事に熱を入れていたし、個よりも衆の先頭に立つ行動に秀でていた。時の商議所会頭は市瀬文三郎さん、この人の懐刀的存在であった。主人は専ら地域商店街の発展に尽くし、私は店の繁昌のために懸命に努力した。
焼けた人々は組合を作って再起の実行構想を練り、主人は組合の先頭に立って低利の復興資金を借りるのに成功した。
復興した街の景観は、以前とは相当異なった。近代的に変貌、脱皮したのだ。最もはっきり変化があったのは各店の表戸で、蝶番で畳んだり下したりの板戸が、腰のあるガラス戸に変わった。
深く道に差し述べられていた雁木が、短く詰められ、それで道が広くなった。大戸の開け閉め、ノレンの吊りおろしといった店員の作業も、ガラス戸の出現で省かれた。
【東京時代】
昔の従弟に給料制など無かった。私が宮内に入った早々の、お盆には二十銭を小遣いに貰った。正月には五十銭、翌年の正月は一円だったと覚えている。
この小遣いをコツコツ貯金していた。少額とはいえ、いつの日にか役立つ筈の貯金であった。
徴兵検査が済んだ後も一年、いわゆる御礼奉公でいた。徴兵検査はこの地区で五十四人で、私は第一乙の糧重兵。世は宇垣首相の軍縮時代であり、豊橋第十五師団が廃団されるといったせいもあって、甲種合格はたった一人きりだった。
検査の時、店からセルの着物と羽織、懐中時計、それに金五円をもらった。それまでの最大、最高の収入であった。
さて御礼奉公も終わってみると、このままずるずる飯田にいては大成は覚束なく、うだつが上がらないように思われた。
東京で、出来たら一旗上げたいと考えた。が、店へはどうもそうはいえない。悪いことではないが憚られた。
それまでにちょいちょい、店を抜けて、といっても勿論許しを得て、家の手伝いに一週間二週間と空けていた。田植え、桑摘み、多忙の折りにである。
それで今度は、当分、家の手伝いに……との口実で、その実は上京、芝・浜松町の恩賜公園内に住んでいた叔母の元にいったん落ち着き、さっそく職探しにかかった。
八丁堀の近く、入舟町の製本所に職が見付かった。現在は紙を切るのは機械だが、その頃は三人掛かりで紙の抜き差し、押さえ、包丁の引っ張りに乗ってエッサエッサ重いハンドルを回していると、汗がいくらでも吹き出し、しまいには顔にうっすらザラザラと、汗が塩になった。
ここには三十日しかいなかった。といっても仕事の激しさにへこたれたわけではない。その家の子供に英語の発音やスペルを教え、これは松濤義塾のおかげだったが、けっこう主人夫婦に重宝がられもした。
しかし、なにぶんにも、工場の形態が小規模すぎて気に染まなかった。これでは飯田とさほど変りはあるまい。一旗上げたい……との初志にももとる。
もっと本格的な修行をと、日本橋・新富町の宮川製本所へ移った。社長の宮川さんは下伊那郡・市田(現高森町)のご出身で、松濤義塾の仲間だった上飯田の吉沢さんの親戚に当たり共に働いた。紺のれんでここは大手出版社の仕事を引き受けていて、辞典とか学術書、単行本の製本――洋綴りに業績を上げ上げいた。
私はここで初めて月給といえる月給を手にした。十八円だった。 規定の初任給なのだが、宮川さんは、私を「骨身を惜しまず働く」と褒めてくれ、十八円にプラス二円の、いわば精励賞を加えてくれた。
私が製本所を職場に選んだのは偶然ではなかった。既に飯田時代(宮内紙店)に通い帳とか判取帳等の、和綴に関してはほぼそれなりの技術を体得していたし、この仕事が好きだったし、今後、商売になる仕事と見込んだが故である。
ふと思い当たるのだが、私たち兄弟は、じっくり気を配って、数にはならない手仕事がどうやら好きなようだ。
私は住み込みで、給料は家へ送り貯金しておいてもらった。鼎・上茶屋の人も市田の人も住み込んでいた。
前年、大震災に見舞われた東京であった。バラックが立ち並び、傷跡はまだなまなましく到る所に残っていた。
【八面六臂の独り商売】
点呼(兵役関係者の所在確認のための軍行事)があって帰省した私は、ついでに、友人と西駒へ登った。
登りだした時はよく晴れていて、穏やかな日よりだったのに、途中から雲混じりの暴風雨と急変した。
石室に避難し、天候の回復を待ったが、いっこう収まらず、ぶるぶるふるえて耐えているよりほかはなかった。一晩中そうやって過ごした。
ほうほうの態で家に辿り着くと、なんとも気色の悪い病人であった。どこが……というより全身が無気力におかされていた。吉川医院へ通ったが、鬱陶しい気だるさは容易に去らず、親も兄も、家にいて安静にしていると、まるで憑願の具合であった。
その前の年の二月、東京で働いていた弟の八郎が、病魔に侵され戻って若死した。家の人たちは、私が八郎の二の舞になるのを恐れたのだ。
そうはいかない私であった。内心青雲の志に燃えて上京したのだ。が、再度上京した私に「なんとしても帰って来い」との催促の調子が高く、この親心まで拒絶する意味は無かった。吹っ切れない思いながら渋々帰郷せざるを得なかった。大正十四年は九月のことである。
暫く家でぶらぶらしていると、「よかったら手伝ってほしい」との声が掛かった。追手町の太陽堂からで、飯田中学へ売店を出すのだがそこの仕事を……との話だった。太陽堂には子供が無く、伊賀良村の、お父さんが校長をしていた宮沢さんが養子に入っていた。
私は太陽堂の勧めを受け、その店造りから始めて、翌年一月までそこに勤めた。もともと独立したいのが私の本旨だったので、間にどこか、店を始める貸家はないかと、あっちこっちへ話をかけておいた。
すると、格好の場所に空家が出た。南広小路の丸木屋さんが知久町の角間へ転じ、その跡で、敷金が二百円だった。その他の費用としては、前に溝川が、鉄板の蓋がしてあったが、その使用料が三十円、共同井戸の入会権利権でもある使用料十円、計二百四十円。
ところで当時の私の貯金といえば、総額四百五十円であった。二百十円の残額から仕入れに百円要った。
万年筆の形をした三間の看板を屋根いっぱいに掲げた。これは問屋のサービスで、サートンという万年筆であった。万年筆の修理器具が三十円、店内改修の大工賃が二十円、その他こまごまとした出費があって、私の手元にはもうほんの僅かしか残らなかった。
【キング堂の誕生】
乾坤一擲の挙に出たこの期に及んでも、正直なところ私には、本当にやっていける自信は持てなかった。店を借り、商売を始めることに宮内の御主人に相談したところ、「けっこうだ、やりなさい、応援しよう」といってくれて、それで踏ん切りがついたようなものだったが……。
ともあれ、独立したくて辿って来たそれまでなので、ためらうことこそおかしかった。一心不乱に、馬車ウマで進むよりなかった。振り向くな、金太郎である。
商品を揃えるに当たって、つくづく有難いと思ったことだったが、知り合いの問屋が、心良くいわいろ貸しにしてくれたのである。
宮内さんしかり、伊賀屋さん大正琴とか尺八、明笛、元のマルサンも地下足袋、ゴム靴、運動靴、追手町の下田さんは絵ハガキ、いろは屋さんが雑貨類といった具合に、間口三間、奥行八尺の店内に約六百円位の品物がぎっしり詰まった。
この貸しにしてくれた人々は、私が宮内紙店に勤めた九年二か月の「実績を買って」といったのだった。
売っては問屋に払い、また貸してもらっては売り、これを繰り返していった。
この時に付けた店名「キング堂」をいまの社名として伝えているのだが、店名についてはさんざん考えた。
キング……は王様と取られがちだが、王様は全く意識しなかった……というより、それを狙っての名ではない。一口にいえば、私の金太郎のキン、それへ文具のグを食っ付けたのだ。それが計らずも、キング堂と名付けて今日に至っている。
当時、キングという名の月刊雑誌があった。講談社の発行で、あまりに本は読まない農家にまで売れ、まさに日の出の勢いだった。(『日の出』という雑誌もあった)
俳優のブロマイドがよく売れた。買うのは主に製糸の女工さんだった。大きなのが一枚十銭、小型のは新聞紙の袋に入れ、五十枚を一束にして吊り下げておいた。これが一袋一銭。
製糸工場の休日には、ブロマイドへ凄い人の群ができた。製糸はマルト、片倉、上飯田館、イタキン等があった。これらの女工さんたちが林長二郎や田中絹代を競って買ったものだ。
日中の商売だけではたかが知れているので、縁日の夜店に欠かさず出た。
知久町が十八日、十日が伝馬町、八日松尾町、二十四日馬場町、松尾の八幡へも行った。大八車へ一山積んで引いて行った。アデカ石鹸、これが四銭、生ゴムの靴が八銭の頃だった。
なんとしても売り上げを少しでも上げようと、疲労などそっちのけの夜店だった。カーバイトのガス燈を二つ点け、この明るさの中に若さの一所懸命が籠るかのようだった。
店の留守はその時その時で誰彼に頼んで出ていた。馬場町の縁日で、五円札の客があって、小銭を算えて釣銭を渡したのだったが、帰ってから見ると、そのお宝の五円札が失くなっていた。あの時分の五円といえば大金だった。
青くなって夜店の現場へ走った。ローソクをともして地面を這いずった。と、有ったのである。店を畳んで、あたりのゴミを掃き集めて帰ったのだが、そのゴミの中に紛れ込んでいた。まったくあの時はうれしかった。
利益はたいしたこともないにしろ、売れゆきの良いブロマイドは、東京から代金引換で松尾町の郵便局に着くのだった。局止めなので、通知があると、留守番が見付からず頼めない時には、猛スピードで走って局へ、また猛スピードで店へ、通行人があっけにとられた程であった。
【銀座店開店】
一見、横文字の店名は、まだその頃、飯田には殆ど無かったようである。覚え易い名だが、知ってもらわないことには始まらないので、宣伝も出来る限りやった。
木版を自分で彫り、刷って、早朝に配ったり、夜遅く電柱へ貼って回ったりした。もちろん今からみればチャチな印刷物だ。
暇な折りには、昔覚えた和綴じの製本をやった。大福帳、通帳などの注文をとったり、紙の断裁機を百円で仕入れ、学校の通信簿などの軽い製本もした。
店の二階では始終琴が掻き鳴らされていた。琴のお師匠さんがいて、お弟子に教えていたのだ。私が寝るのは畳一枚の上で、布団は日中は棚の上に乗せておいた。
炊事場は狭いし、煙を店内で立てて大切な商品に煤けさせてはまずいので、コンロを表に持ち出し、ぱたぱた団扇で煽いでは火をおこした。
ずいぶん妙なご飯も食べた。水加減のせいで粥になったり、ポロポロだったり、かと思うと、仕事にかまけ、ご飯を炊いているのを忘れて、大焦げに焦がし、また炊き直したり、一日分のご飯をつい一度に食べてしまったり……、独身青年の面白いといえば面白さでもあった。
店の向かいに松田屋という一杯飲み屋があり、そこから食事を運んでもらったこともある。開店は大正十五年の二月一日、その年十一月二十一日に結婚した。間もなく十二月、年号が昭和と改まる。
阿島出身の家内との結婚は、時代からして当然見合いで、この縁談を持って来てくれた人の、余りの熱心さに押し切られたような形だった。
新婚の夫婦して畳一枚に住むわけにはいかない。そこで、伊賀屋からノレンを分けてもらい、独立して知久町で下駄屋をしている兄の家の二階を借りた。
少しの間ここにいて、次いで知久町が所有者である貸家に移った。三軒だか町会の貸家があったのだ。今の山田食堂、新見酒店の裏側に当たる。
そこで暮らしながら、もうちょっと広い家はないものか、店と住まいと一緒にいけるような……とあちこち探していた。その間幾つか候補が出た。現中央広場の中央通り寄り角間とか、生川書店の隣、銀座三丁目、そして今画材を売り場としてある所の話が出たのだった。
そこいら一帯は江戸町の牧内さんの土地で、私が借りた家は、それまで人力車のタテ場(溜まり場)であった。同じ町内ではあるし広いし、家賃も、それまでの小椋さんの所が三十六円か三十八円、ここは場所もよく三十六円で廉かった。
昭和三年の秋、新店舗での商売が始まった。間口二間半の十六坪、二階は壁で二つに分かれていて、片方を東京庵が使っていた。梯子段は別々で完全に二分されていた。
新店舗でも好きな製本を片手間に手掛けた。廂(ひさし)が九尺と長い廟だったので、屋根に物干場のような台を設え、そこへ断裁機を置いた。道から見上げて見れば変テコな眺めだが、それは間口と同じ寸法の看板で隠した。
大看板で塞ぐと、当然、室内は暗くなるので、看板に窓を開けた。窓開けの看板は珍しかった。
おいおい店が忙しくなると、副業であり趣味でもある製本にさく時間は失くなり、断裁機もよそへ売った。
扱う品も大幅に増えたし、創意を働かして独自に絵ハガキを製作し、発行元となったりした。天龍峡とか、富士見台、伊那節踊り等であった。これを界隈一円の土産物店へ卸した。この古い絵ハガキを知っていて「あれは観光宣伝に大いに役立った」といってくれる人もある。
商い即飽きないで、とにかく骨身惜しまず動き続けた。自分で選んだ道は、いわば天命のようでもあり、あえていえば自分の人生観――全人生の投入が生き甲斐でなければおかしいし、自然そうなって、商売に熱が入った。
店を買い取り、名実共に私たちの物となったのは、昭和二十二年の飯田大火後間もなくである。
周囲の方々の応援、お客様の引き立てあっての成り行きだ。それと、内輪話としては、家内の商売熱心の賜である。兄弟の助け合いも有難かった。感謝できる人々を持てることは、とりもなおさず私たち夫婦、家族の幸せであろう。
【パイプや梨を作る】
戦前戦後、あれこれ苦労話は割愛しておこうと思う。日本人の一人一人が、大なり小なり皆舐めたところだし、この伊那谷の場合は、空襲にも原爆にも遭わず、焼かれもせずに、特長といえば大都市からの疎開者を多く受け入れたことだろう。
穀物地帯でもない当地方なのだが、敵側にとって空襲に価する施設が無いという、つまり戦争に無価値な場所だったことが、最も大切な人命を護る所になったのだ。価値というものは、ことほどさように、常識的な尺度ばかりでは計れない。
戦局が深刻化するにつれ、私の店もごたぶんに洩れず、日一日と品物の流れが滞っていった。が、それでも、これまで問屋に迷惑をかけてなかったせいか、時勢からすれば回されて来るあんばいは順調な方だった。
やがて完全に統制時代に入る。下伊那家庭雑貨統制組合が出来、私はその文具部長にされ、事務所は初め銀座交差点の東輝軒に設けられた。次いで現在のリンク会館のところを配給所とした。ここは一時共同炊事場だった所だ。下久堅の村長をした三石さんが、先頭に立って人手不足の折りから各戸で炊事も無駄な労力として始めた共同炊事であった。
パイスケを作ったこともある。昭電への納入品だった。これは、竹細工の得意な男が名乗りを入隊したので、その後を受け継いだのであった。
果樹園にも手を染めた。これは私自身の為の仕事というのではなかった。東京に行っていた兄が徴用に取られ、家内とその大勢の子供がこっちに疎開していたのだが、家内が病死してしまった。兄が帰った頃、市田(高森町)に果樹園の売りが出、いっそこの兄の今後の生活設計の具にしたらと、私と二番目の兄の二人で金を出し合って買ったのである。
ここは市田の人たちが集団で経営していた果樹園で、梨が四百本、リンゴ五十本、一町歩位の土地だった。放ったらかしだったので、荒れ放題に荒れていた。
私のところには農機具は無いし、もう店にも売っていなかったので、苦心して鋤、鎌を集め、私も毎日自転車で通いで草刈りや土ならし、施肥に通った。兄は山の腐葉土を堆肥に混じ込んだ。
甲州の人で、いい肥料があるというので、私が金を払って注文したが、待てど暮らせど来ない。この肥料は届かなかった。
七年ほど、ろくな実が付かなかったが、十年あたりからぼつぼつものになりだし、今は立派な、凄いのがなるようになり、面積も一町歩近い。私の願いが達したわけだ。
私たち数多くの兄弟は、貧乏家庭に生まれ育ち、それぞれ苦労して生きる道を拓いて来た。そんな環境だったから、いわゆる兄弟愛はごく自然に発露して、特に意識するでもなく、誰にいわれるでもなく、お互いに扶け合って今日に来た。
そう出来たのは、貧乏の一種の徳でもあるが、この年になって私の密かな誇りである。
水の手の土地も、長兄の援助で戦前に手に入れ、耕作不在でいったん取り上げられたが、再び協力してもらって買い戻している。
飯田大火では、ご同様バラック営業を余儀なくされた。しかし焼けた商品の代価も、全部問屋へ滞りなく支払った。古屋を男が買って持っていたのを、古屋の二度買いで商売を続けながら、頼みの綱の火災保険のおりるのを待った。
火災保険はずいぶん手間どったもので、おりるのに八カ月かかった。二十八万円であった。
この二十八万円は、兄の家と、家内の姉の家の建築資金にも役立った。
物不足が収まってやれやれと思うと、今度は税金攻勢。結構つくめるのは、浮世は愛き世、有り得ないことだ。
二十三年の二月、商工会議所議員十五年勤続で表彰された。
二十七年七月、店を法人組織とし、ずっとくだった去る四十六年十二月、十倍強に増資した。
【共に街づくり】
信南自動車の発着所を、遠くの街へ持って行かれては、伝統あるこちら一帯のメインストリートがさびれてしまうと、移転反対の既成同盟が出来たのは三十一年、その会長に私が推された。
反対とはいっても、発着所に格好の土地がなければ、信南との交渉にならない。そこで現在の常盤町の土地が最適ではないかとなって、柴田さんと私とで、同地の所有者である青島さん(当時、信金理事長)に売却方をお願いに行った。するとお二人共、「利権屋と不動産の話ならご免だが、そういうわけならいいでしょう」
と、同じようなことをいって快諾してくれた。
譲ってくれる価格も、相場よりよほど安かった。そこで私たちで一時買って信南に提供しようと、壱億を募った。水の手人もあり、金繰りはついて、これを低利の十年償還で信南へ貸し付けた。
水ノ手線道路改修既成同盟が出来たのは三十四年の秋、また私が会長の本命が回されて、水の手は谷川線が生まれる前は、市と南部各村を繋ぐ重要道路だが車の通行に不便であれば、銀座、知久町の商店街へ与える影響は相変わらず大きいのだった。
改修に使える市の予算は六百万円しかなかった。これでは何とも仕方ないと、町内や自動車業界へ働きかけ、基金作りを始め、五年近くかかりはしたが二百余万円出来た。そして県、国、関係方面へ、地元選出議員にも頼んで運動を続け、難行のあげく、ついに改修と決定、大工事のすえ三十八年十一月、松井市長の手で開通式のテープが切られた。一億円の工費のこの工事も、二百三十万円の呼び水——その熱意があっての賜であった。同線の改修で、交通渋滞の緩和に効果が発揮された。私個人としても内心うれしかったが、これが竣工したのは四十六年の胸中だった。
先に名を出したリンク会館だが、これが竣工したのは四十六年、用地買収費は六千三百万円だった。リンク販売の出発はずっと古くて二十七年の十二月、アメリカで普及しているこの方法に刺激され、また各地の状況を参考に、当地の一流小売業者九十八人でもって結成された。以来、私は同会の理事で、四十二年六月、理事長に推された。なんとか幾らかなり世間のお役に立ちたい私だが、この年まで生きて働いていると、それほどの能は無くてもけっこう周囲に使ってもらえる。考えてみるとありがないことだ。
四十六年八月二日、市の自然公園古木山へ登り、危なく遭難死するところ、良き一行のおかげで救われもしている。時に私六十八歳、山には無理な年だったが、私は御嶽へも何回も登っており、山は好きだし自信があった。
観光開発のための基礎調査が目的で、バスを仕立て、一行二十人、うち七人が「もう少し先まで見よう」と残ったのだった。熊笹を掻き分け安平へ向かい、途中、伊那谷、木曽谷の景観を眺めつつ……。細かくは省くが、現実にはまさに遭難であった。迷い込み、日が暮れ、断崖を降り、巨岩を滑り降り、大変な目にあって、翌日午後過ぎ救出された。まさに九死に一生の思いであった。
山好きもこれで山にこりた。製本は時に手を出し、これはあちこちで喜ばれている。
今年は店舗も広げた。当店文具部南隣りのビル(地下一階、地上二階)がそれだが、これは元スーパーだった。駅前の新ビルへ移転したあとの一、二階を私どもが買取、壁を抜いてつなぎ、画材部も併合、改装して去る七月十三日、めでたくオープンした。
店を開いてから五十年の道のり。
これで一応、目的も果たしたし、商売のし甲斐もあるというもの。さらに世間に対してもまだまだ少しは何かの役に立てそうで、今年十月に迎える金婚式を楽しみに、痩躯に鞭打つ昨今である。
街の様相も美しく賑やかに定着した。あれは三十二年の四月だった。飯田復興祭に銀座の店主が打ち揃い、次郎長踊りの一行を繰り出し、拍手喝采を浴びたのは。私にはオ蝶の扮装が回って来、連夜練習を重ねたのだったが……懐しい想い出ではある。うたた夢のような……。
<了>