18/10/2025
【職場から笑顔が消えた夜】
最終バスの発車ベルが鳴る。駅前の風は冷たくて、紙コップのコーヒーから出る湯気だけがやけに頼もしく見えた。
三沢は、スマホの通知を親指で弾いて全部消した。部下たちの既読だけが、いつもより白々しい。
「数字は達成。なのに、誰も喜ばない。」
部長に昇進した春から、彼は“勝ち方”を変えた。朝のミーティングは短く、指示は明快、締切は動かさない。「やるか、やらないか」。その姿勢は、上には評判が良かった。
だが、フロアの空気は別だった。雑談が減り、Slackの雑チャンネルは止まり、報告は必要最低限だけが上がる。食堂で席は混んでいても、彼の隣だけは空いたままだった。
ある日、右腕の佐伯が退職願を置いた。机にボールペンを置く時の音が、やけに静かに響いた。
「三沢さん、私にとっては“正しいこと”でも、ここでは“怖いこと”になってしまって。すみません。」
謝る彼女に、三沢は「そうか」と短く言った。引き止める言葉が、喉の奥で粉になった。
その週末、母の病院へ向かう廊下で、白衣の気配が横をすり抜けた。ナースステーションから、落ち着いた声が聞こえる。
「——大丈夫、今はできることをひとつずつね。」
顔を上げると、年配の看護師が新米に目線を合わせて、ゆっくりうなずいていた。
それは指示じゃなかった。背中を押す手の温度だった。
母の枕元に座ると、彼女は幼い頃の話をした。
「小学校の運動会でリレー負けた日、あんた、泣いてたよね。帰り道で『なんで勝てなかったか』ばっかり言ってた」
三沢は苦笑した。
「覚えてないな」
「私は覚えてるよ。あのとき、お父さんが言ったの。『で、誰がバトン渡す時に一番“いい顔”してた?』って」
母は続けた。「あんた、しばらく黙ってから『健太』って答えた。そしたらお父さん、『じゃあ次は健太に“ありがとう”言っておいで』って。あれから、あんた、走り方が少し変わった」
帰り道、エレベーターの鏡に映る自分の顔は、妙に固かった。
——“いい顔”。
最近、誰の顔を見て仕事をしていただろう。
翌月、三沢のチームに大型案件の提案機会が舞い込んで来た。
予算規模は大きい。勝てば、部の来期が揺るがない。彼は計画を組み、役割を一方的に割り振った。抵抗の空気が漂っても、予定表はびっしり埋まっていく。
だが、初回レビューの日、仕様の前提に抜けが見つかった。資料を閉じ、沈黙が落ちる。誰かが咳払いをした。
「——やり直す。明日の朝までに、最新の数値と仮説で組み直す。よろしく」
解散の気配の中、若手の木村が小さく手を上げた。
「僕、ひとつ提案があって……」
三沢の視線は、無意識に“時間”の方を向いた。
「今は間に合わない。指示通り、急いでくれ」
その夜、眠れなかった。枕元で、病院の廊下の声がよぎる。
——今はできることを、ひとつずつ。
そして、母の言葉。
——誰が一番、いい顔をしてた?
翌朝の会議。始め方を、彼は変えた。
「数字の前に、30秒だけ。昨日、誰かに『ありがとう』を言いたい人、いる?」
室内の空気が、わずかに揺れた。最初に声を出したのは、意外にも無口な経理の相原だった。
「制作の山根さん。夜まで図表やり直してくれて、助かりました」
山根は照れ笑いした。
「……ありがとう、ございます」
三沢は木村を見た。
「で、木村。君の提案、聞こう」
木村の説明は粗かったが、要は「仕様の中心に“現場の人の動き”を置くべき」という話だった。
「数字の比較だけだと、相手の現場に“人の影”が出ない。動画で動線を見せて、困ってる場面から入る方が、向こうもイメージしやすいと思います」
それは、手間がかかる。今からやるには、無謀にも見えた。
でも、不思議と胃が軽かった。
「——やろう。数字の表は俺が引き取る。動画の骨子は木村主導。誰が一番“いい顔”で動けるか、そこで役割を決めよう」
チームが動き出した。
抵抗する者もいた。ベテランの梶原は眉をひそめた。
「見せ方を変えても、値段が勝負だろ」
三沢は頷いた。
「値段は勝負だ。でも“誰のために”を映さなきゃ、数字が正しくても負ける」
梶原は何も言わなかった。ただ、夜になっても席を立たなかった。
それから数日、会議室の空気は少しだけ温度を取り戻した。告白のような短い「ありがとう」が飛び交い、うまくいった瞬間を皆で言葉にした。
三沢は1on1の最初に必ず聞いた。
「最近、嬉しかったことは?」
そして最後に、
「来週、その“嬉しかった自分”を、どこで再現する?」
問いが変わると、話の向きが変わった。愚痴の行き場が、工夫の種になった。
——ところが、プレゼン当日、電源トラブルが起きた。
プロジェクターは沈黙し、会場の時計だけが進む。先方の担当者は腕を組み、同席の役員が時計を見た。
冷たい汗が背中を流れる。
「すぐ復旧します」
口が勝手にそう言った。しかし予備も動かない。もう、時間はない。
そのとき、木村が小声で言った。
「——スマホでやりましょう。動画は手元でも再生できます。映せなくても、伝えられます」
三沢は、迷った。
数ヶ月積んだ“正攻法”を捨てるのか。
だが、目の前の相手の顔は、待ち切れない表情になっている。
「お願いします。まず、現場の“朝の30分”から見てください」
会議室は、少しざわめいた。
木村がスマホを立て、机を囲む四人に身を寄せる形で説明を始める。
動線の渋滞、紙を探す無駄、現場の困り顔。
「このアングルは、先方の倉庫で実際に起きている想定です。ここで導入後の動きに切り替えると、待ち時間が3分短縮されます。数字では3分。でも“人の気持ち”では、出勤のイライラが一つ減ります」
役員が身を乗り出した。
「……続けてくれ」
プレゼンは、結局スマホの画面を皆で覗き込む形で終わった。
帰りのエレベーターで、三沢は木村の肩を軽く叩いた。
「よく持ちこたえた」
木村は息を吐いた。
「怒られると思ってました」
「俺も、怒るつもりでいたよ。昨日の俺なら」
その週の金曜、先方から連絡が来た。
「今回は御社にお願いしたい。ただし、最初の一ヶ月は“数字”じゃなく“現場の空気”の変化を見せてほしい」
電話口の担当者は言った。
「正直、あの状況で“続けます”と決めた顔が、今日まで残ってるんです」
受話器を置いた手が、少し震えた。
勝った、のか。
いや、違う。
“勝ち方”が、初めて自分の中で腑に落ちた。
その夜、三沢はフロアの灯りをひとつずつ消しながら、梶原の席の前で立ち止まった。
「梶原さん。来週、1on1させてください。あなたが、この仕事で一番“いい顔”していた瞬間の話を、聞きたい」
梶原は椅子にふんぞり返り、しばらく天井を見てから、ぽつりと言った。
「十年前、初めて契約をもらった日かな。客先の倉庫で“一緒に汗かいた”って言われた」
彼は、ほんの少し笑った。
「……その話、ずっと誰にもしてなかったよ」
月が変わる頃、チームの雑チャンネルは動き出した。
「今日の“いい顔”」というスレッドができ、誰かが撮った同僚の横顔が上がる。
相原が、昼の時間を使ってメンバーの家族の誕生日カレンダーを作った。
山根は、動画の撮り方講座を開いた。
三沢は、母の病室で聞いた言葉をスプレッドシートの上に置いた。
——今できることを、ひとつずつ。
——誰のために、どんな“いい顔”を増やすのか。
そして、ある夕方。
辞めたはずの佐伯から、短いメールが届いた。
件名は「近況」。本文は二行だけ。
「新しい職場で、初めて“ありがとう”を言われました。
三沢さん、あの時は、ごめんなさい。今なら、少しわかります。」
画面の文字が滲んだ。
彼女は戻ってこないかもしれない。それでも、その二行は、チームのどの数字より重たかった。
年度末、上層部からの打診が来た。
「本社の統括に来ないか」
出世のチャンスだった。
会議室の窓から見える街は、眠らないままだ。
三沢は、少しだけ考えてから、返事をした。
「ありがとうございます。もう一年、この現場で続けさせてください。今、芽が出たばかりなんです」
電話の向こうは意外そうに黙った後、「わかった」とだけ言った。
夜。フロアの照明は落ち、非常灯だけが薄く残る。
帰り支度を終え、エレベーターへ向かう廊下で、彼は立ち止まった。
窓ガラスに映る自分の顔は、知らない顔だった。
頬の力が抜けて、眼差しがやわらかい。
ようやく、誰かの上司ではなく、誰かの仲間の顔になった気がした。
ポケットから、名刺サイズの紙を取り出す。
片側には三つの問い。
——「今日、誰の“いい顔”を増やした?」
——「そのために、明日、何をひとつだけやる?」
——「うまくいったら、誰に“ありがとう”を伝える?」
裏側には、ただ一言。
「成果は“答え”で決まらない。毎日の“問い”で決まる。」
その紙を財布に戻し、彼はビルを出た。
外は、冬の匂いが近づいている。吸い込んだ息が白くなり、すぐに消えた。
どこかで笑い声がした。
その笑い声が、明日またこのフロアにも戻ってくる気がした。
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■こんな方に
・結果は出るのに、チームの空気が重く、ついて来られていないと感じるリーダー
・「人はいるのに動かない」「右腕が育たない」原因を根から整えたい管理職
・会議が“報告の場”で止まり、納得と自発性が生まれない組織のご担当者
・数字と幸せの二者択一から抜け、長く続く成果をつくりたい経営者
■読後に起きる変化
・会話が変わる――問いが変われば、表情が変わる
・表情が変わる――表情が変われば、行動が変わる
・行動が変わる――行動が変われば、成果が続く
「誰の、どんな“いい顔”を増やしたいのか。」
その一点が、チームを前に進めます。どうか最初のページを開いてください。
最初の章は、あなたの現場から始まります。
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