新芸術企画 New Arts Management

新芸術企画 New Arts Management 全く新しいアートのあり方を、社会に向けて発信するアーティスト集団 我々は、アートが本来持つ強力なポテンシャルを、全く新しいアート市場の形成を通じて開花させるとともに、ビジネスの世界に対して真のイノベーションの形を提案します。

コラム Vol.32 【芸術作品】なんとまぁガチっとした感じのテーマだが、なぜこんなタイトルを付けたかと言うと、自分の娘が鼻歌をふふんと歌いながら作ったレゴブロックやら、物を並べたり配置したりする様を見てこう思ったわけです。「めちゃくちゃに...
07/08/2013

コラム Vol.32 【芸術作品】

なんとまぁガチっとした感じのテーマだが、なぜこんなタイトルを付けたかと言うと、自分の娘が鼻歌をふふんと歌いながら作ったレゴブロックやら、物を並べたり配置したりする様を見てこう思ったわけです。「めちゃくちゃに見えるけどなんか自然だなぁ」と。そこには規則性もあり、例えば長方形の同じブロックをただただ積み重ねて3つの塔を作ったのだが、良く見ると左側から一段ずつ高くなっている。また、おもちゃのキノコを床に立ててばらばらに並べてるんだけど、そこには調和を感じたりする。別にこれが芸術なわけではないが、しかし絵画にしても感覚的な詩や物語、音楽作品、コンテンポラリーダンス等にしても一見めちゃくちゃに思える物が、よくよく奥深くを見て感じて行くとそこには「自然なもの」を感じることがある。と言うよりも素敵だなと思う作品は全てある種の「自然さ」を共通して感じる事が出来る。

そうなると自然もまた芸術なのか?となってくるが、時に大自然を目の当たりにした際、「芸術的だ・・・」なんて感動してしまう事もある。芸術の定義をちゃんと出来ないのに(する必要もないのかも)、なぜ僕たちは「芸術的だ」と口走ってしまうのだろう?芸術的って何だ?自然って何だ?

人の感覚と言うのは面白い。どんなに文化や風土、言葉やキャラクター、価値観等が違えど、自然に対する偉大さや家族への愛、道端に咲く一輪の花を綺麗だと思う気持ちは変わらない。芸術とはその部分に「僅かながら」含まれているのかもしれない。

理屈を超えて共感し得るものの一つに芸術もあると思うのだが、それはもっと現社会に役立つことは出来ないものか?芸術と言えば構えてしまうかもしれないが、それは自然なことでもありうるからこそ、身近な物でもある。その普遍性を、その共感性を感覚として理解し得た時に、芸術は社会にとって大きな人間的な心の繋がり、支えとして、その役割を担う事が出来る。無論、これだけのためではないが、そう在りうる事の1つとして・・・。

社会における音楽芸術の可能性の一つとして、世界的音楽家であるダニエル・バレンボイム率いるウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の活動を挙げたい。政治的には今のところ困難である事を芸術により一石を投じることに成功した具体例である。ご興味ある方は是非DVD「知る事、それが始まり」を観て頂きたい。

なんて事を娘のおもちゃを見て思ったわけです。

2013/8/7
ピアニスト 末永匡

22/07/2013

コラム Vol.31 【選挙とアート】

昨日は参院選があったので、ふと政治とアートの関係について考えた。いや、考えたというより、疑問が色々と湧いて来たりしたので、つらつらと書いてみようと思う。

①アーティストは何に基づいて投票行動を決めるのか?

国会議員というのは、何かしらの利権を代表する存在だから、有権者としては自らが持つ利権を守ったり、拡大したりするために特定の議員や政党を支持する行動をとるのは当然の成り行きである。税制改正やTPPなど、有権者の立場に応じて経済的利害関係が明らかに発生すると見込まれる場合には、ある程度は合理的な投票行動を取りやすい。
この点、アーティストという立場からすると判断が悩ましい。例えば以下の各政党の公約を見る限り、芸術に対するスタンスの差異を具体的に見出すことは難しそうだ。

自民党:『・・・子供が質の高い文化芸術を鑑賞・体験する機会の充実、芸術文化活動への支援強化、文化財の保存・活用 など、・・・「文化芸術立国」を目指した取組みを促進します。』

民主党:『日本の伝統的な文化芸術を継承し、発展させるとともに、独創性のある新たな文化芸術の創造を振興します。』

ん〜、、、全然ピンと来ない。

ちなみに、維新の会の公約を見ると、芸術に触れている箇所はない。そういえば、橋下さんは特定の芸術分野を激しく攻撃していた時期があったので、芸術関係の方々から見るとあまり良いイメージはないのかもしれない。

②芸術関連の団体等と紐付いた族議員は存在するのか?

私が知らないだけかもしれないが、芸術族の議員というのは聞いた事がない。例えば今回の東京選挙区では、鈴木寛さんは芸術を含む教育問題に明るく、極めて優秀な政治家だと思うが、別に族議員という印象ではない。しかも落選してしまった。
また、ロビー活動がどの程度活発に行われているのかも不明だ。

③選挙とコンサート

選挙における政治家の立場は、サザンオールスターズのライブにおける桑田佳祐に近い。膨大な数の観客をカリスマ的な求心力で動かす訳だが、そこでは観客=大衆=数と見ているから、意識でコントロールしようと世界だ。
一方、選挙に行く有権者は、クラシック音楽のコンサートや舞台演劇の観客に近い。それぞれに主張や好みがあって気難しい。ここは受け手の感覚が介在する領域だ。
サザンのライブをクラシックのファンばかり集めて開催しても、本来は噛み合わないはずなのだが、昨今のように有権者側にこだわりとか考える姿勢がなくなってくると、ある程度これが噛み合ってしまうから、選挙結果が極端に振れるのだろう。

2013/7/22
五十嵐 友彰

コラム Vol.30 【窮屈なんて嫌だ】このコラムもとうとうvol.30を迎えました。皆さまのお陰です、ありがとうございます。よくまぁネタが尽きないなと、久しぶり始めから読んでいてそう思いました。エッセイ集として本が出来そうですね。前回の五...
09/07/2013

コラム Vol.30 【窮屈なんて嫌だ】

このコラムもとうとうvol.30を迎えました。皆さまのお陰です、ありがとうございます。よくまぁネタが尽きないなと、久しぶり始めから読んでいてそう思いました。エッセイ集として本が出来そうですね。

前回の五十嵐さんのコラムに僕がちょこっと登場してましたが、それに補足です。僕の少年期の原体験で最も影響を与えたのは、その環境+ロビンソンクルーソーです。このコラムでは全く関係ないですが。

さて、今僕は大声で叫びたい気分です。本気で大声を出したら地球の裏側まで届いてしまうかもしれません。

そう言えば、ピアノを練習している時、作品によっては自分が声を出してしまう事もしばしば。グレン・グールドというピアニストがいましたが、彼は非の打ちどころもない緊張感溢れる演奏は勿論の事、同時に声を出して歌いながら弾く事でも有名でした。youtubeでもCDでもそれを確認できますので、是非聴いてみて下さい。

僕が20歳の頃、ある夜、部屋で彼のバッハをCDで聴いていました。耳を澄ますと彼の歌声(鼻歌のようなもの)が聴こえてきたので、僕は楽譜に彼が歌っているメロディーを書き写しました。「へぇ~こんなメロディーを歌っているのか」と当時は驚いたものです。しかも彼は自分用のピアノ椅子を常に持ち合わせており、その椅子は足が短く切断されているものでした。演奏における椅子の高さと言うのは演奏者にとってある程度影響を与えます。中には、紙一枚分気になる人もいれば、勿論どんな高さでも良い、なんて人もいますが。

他にも、声を出すだけでなく、両手を上げてガッツポーズをしちゃったり、髪の毛を振り乱し、ライオンが牙を剥くかのように大きく口を開けたり、魂が抜けきってもぬけの殻の様な表情、今にも立ちそうになったり、と色んな演奏家がいます。

興奮です。音楽によって引き起こされるトランス。自分の心を開放し解き放つ究極の状態。

こういうのをライブで経験できるっていうのは本当に幸せですね。鳥肌が止まらないです。今日添付した画像は、1978年、ニューヨークにあるエイブリー・フィッシャー・ホール、オーケストラはニューヨークフィル、ピアニストはホロヴィッツ、指揮はメータでラフマニノフピアノ協奏曲第3番の2楽章を演奏しているところです。(難曲中の難曲で知られる名曲です。映画では「シャイン」で有名ですね)

指揮者と言うのは基本的にはオーケストラに向いています。しかし、これはもはやオーケストラに背を向け、ピアニストに襲いかからんとするほど手を振り上げて迫ってきてます。音楽的興奮が彼をピアニストに向けさせたのでしょう。ホロヴィッツはもちろん彼に答えます。強烈な興奮のるつぼの共感共有です。心の底に蠢く大河が爆発し龍のごとく高みに登り始める瞬間です。そしてこの時の演奏は、ホールにいる全てをのみ込みます。(と言っても僕はその場で聴いたわけではありませんが、映像からでもそのパフォーマンスは感じる事が出来ます。その場にいれば更にでしょう)歴史に残る名演と呼ばれるものです。

・・・そういうものに触れると僕は、よくわからないけど勇気とチカラが湧いてきて明日から頑張って生きようって気になるんです。

ピアニスト 末永匡

08/07/2013

コラム Vol.29 【感覚と意識〜医学からみたアート〜】

解剖学者で東大名誉教授の養老孟司さんのお話を拝聴する機会があった。大ベストセラー『バカの壁』などで大変有名な方だ。

養老さんによれば、「感覚」と「意識」は分けて考えるべきものらしい。以下要約。
・「感覚」:コントロール不能、人間以外の動物には感覚しかない、自然、実体
・「意識」:同一性を認識して言語や数字にすること、人間特有の能力、都会、金融
・ペットの犬や猫は、音の高低を感覚的にしか認識できないので、主人の言葉は分かっていない。
・人間の赤ん坊は感覚で生きているが、次第に意識にシフトしていく。絶対音感といった人間が本来持っている感覚は、成長とともに失われてしまう。
・意識で感覚を制御することはできない。

この文脈でアートとの関係を考えると、

- アート=感覚を意識的に表現したもの
- アーティストの資質=感覚の維持に高いレベルで成功し、かつ意識的な表現能力を備えていること
- 鑑賞者の資質=感覚を維持し、かつ表現の理解能力を有すること

という感じに整理できるだろうか。

例えば、新芸術企画のパートナーである末永さんの場合には、少年期を自然いっぱいの場所で過ごした原体験と、その後の技術的な鍛錬の両方があって今があるということだろうか。そう考えると妙に納得できる。

私の場合、富山県富山市という中途半端な田舎で育ったから、それほど自然と触れ合いながら生きて来た訳でもないが、多少なりともアートへの関心を持てるのは、たぶん農業をやっていたからだろう。幼少期に身に染み付いた農業体験がなければ、最低限の感覚も維持できなかったはずだ。

もちろんレベルや中身は全然違うが、アーティストであれ鑑賞者であれ、求められる資質は似通っているように思う。

問題なのは、意識(技術や知識)は後付けでもある程度何とかなるかもしれないが、感覚を維持するとか感覚を取り戻すというのは非常に困難である点だ。

多くの人が言うように、感覚の維持には幼少期の原体験が重要なのだと思うが、日本のように少子高齢化と過疎化が進むということは、感覚的な原体験を持つ人間が急速に減って行くということである。そうなるとアートも衰退してしまう。

私の個人的経験と、昨今の政府の政策からして、例えばアートと農業をセットで発展的に考えるアプローチは非常にアリだな、と思う。

2013/7/8
公認会計士 五十嵐 友彰

03/07/2013

コラム Vol.28 【繋がりたいの?繋がりたくないの?】

大都市、東京。日本総人口の約一割がこの都市に集中している。人、物、情報に溢れ、その勢いはとどまる事を知らない。そんな東京では一晩に一体どれくらいのコンサートが行われているのだろう?

コンサートにはいくつか形態がある。レクチャーコンサート、トークコンサート、他分野とのコラボレーション、サロンコンサート他、アウトリーチや施設でのコンサートなど多種に渡って行われている。特にコラボレーションは刺激的な、チャレンジングなアイデアに富んでいる。

終演後お客様とお話させていただく機会も多く、そんな時よくこんな事を耳にする。

「演奏者がこうやってお話ししてくれると面白い。近く感じるし音楽も楽しめる」
「やはりコンサートはチケット代が高い、こういうお財布に優しい値段は嬉しい」
「昼公演は嬉しい。コンサート後も雰囲気にひたれる」

言い出したらキリが無いが、直接耳にするだけでなく、アンケートにも「必ず」と言っていいほど書かれている事が多い。そして感想は続く。

「こういうのが(トーク、安価なチケット、昼公演等色々)増えるとクラシックコンサートはもっと盛り上がるのに。もっとたくさんやってほしい。そしたらコンサートにも行くようになる。」

このように積極的に意見を述べてくれるのはとても嬉しい事である。しかし実際にクラシック音楽情報誌やインターネットなどを調べてみるとこのようなコンサートは星の数ほどある。別に新しくもなく、今日も明日も新しいアイデアが生まれているコンサート。無料やらワンコインコンサートもたくさんある。午前中からコンサートはあり、最近は昼公演は普通にある。もはや特別なことでもない。

しかし、なぜ多くのお客様、またはアンケートにはこのように言われ続けるのだろう?それは勿論「知らない」からなのだが、しかしなぜこんなにもコンサートや情報に溢れているのに、それが届いていないのだろう?

これは実際に僕が体験した事なのだが、あるランチタイムコンサートでのこと。平日のランチタイムである。お客さんは来るのかなぁ、と少し心配だったので主催者の方に聞いてみた。「この時間、この場所でのランチタイムに、どんな客層を狙っているのですか?」するとこう答えた「この辺りを行き交う方々、または、この近くにある会社などで働かれている会社員の方々が、お昼の休憩中、もしくは移動中にちょっと立ち寄る感じで聴きに来てもらいのです」と。僕は率直に(なるほど、面白い)と思った。

しかし実際にコンサートが始まるとそれらしき人たちは誰一人として来ていない。むしろ普段クラシックコンサートを応援して下さっているような方々を多く見た。不思議に思いつつも、聴いて下さるお客様には最大の感謝を持って演奏させていただいた。終演後、「どのように告知されたのですか?」と主催者に聞いてみると「”あれ”や、”あれ”などに掲載し、さらにDMを送りました」と答えられた。「”あれ”や”あれ”など」とは音楽専門誌のことである。しかし、この辺りの会社員が積極的にそれらの雑誌を購入し情報をチェックしているとは到底思えないし、DMを送れるような関係に繋がっているとも思えない。ゼロではないかもしれないが、想像するのは難しい。

もし「近くの会社の方々に来ていただきたい、この辺りを行き交う方々に来ていただきたい」のであれば、例えば演奏会場から徒歩5~10分程度のところまでの会社にチラシを持って営業に行くなり、その辺りを行き交う方々のために路上でチラシを配るなりする方が、当初の目的に合っていると思うし、新規顧客開拓の意味でも理にかなっていると思う。実際にランチタイムコンサートを主催されている企業なり個人なり、そのような努力をされているところはある。しかし僕は、この経験にある種の関係性における「縮図の様なもの」を強く感じた。

「繋がろうとする気持ち」がなければ何も始まらない。

ピアニスト 末永匡

01/07/2013

コラム Vol.27 【アートとカネ③〜社会問題と芸術〜】

アーティストの夢を問うた場合、「アートで世界を平和にしたい」といった社会問題の解決が挙げられることが多い。
いきなり世界平和と言われるとさすがに面食らってしまうけれども、アートとカネの関係を考える際に、特にこの日本においては、実はこの辺りが最も伸びしろの大きな領域である。

なぜなら、以下の通り現状がドン底だからである。

①投資判断における非財務情報の利用状況
アートは必ずしもカネ勘定できるものではないから、非財務である。企業が「より良い社会の実現ために慈善事業をやっています!」といった場合の効果も測定できないから、これも非財務だ。
こうしたフワフワした価値を、カネの出し手が認めてくれるかどうかの調査結果がある。これによると、世界平均で22%、欧米では49%、ドライだと言われる米国でも11%の運用資産について、こうした非財務情報を考慮した投資判断が行われているそうだ。これに対して、日本は驚愕の0.2%である。つまり、現状では完全に無視されている。(出所:Global Sustainable Investment Alliance)

②ESG投資の状況
ESGというのは、Environmental、Social、Governanceの略で、企業が環境・社会・統治といった諸問題に配慮した投資を行うことで、持続可能な経済社会を作ろうといった意味だ。
世界のESG投資の残高に関する調査結果は色々とあるが、日本のシェアは1%を遥かに下回るとされている。社会問題に対する無関心が著しい。

ところが最近、特にここ1年程の間に、非財務情報やESG投資に対する関心が急激に高まっている。毎日のように新聞に載っているし、大量の調査レポートが発表され、企業報告のグローバルスタンダードも形成されつつある。今やビジネス界における超重要トピックとして扱われており、すでに相当数の大企業が具体的な動きを始めている。

極めて大きな変化だ。この流れに乗るしかない。

乗っかるために必要になるのは、もちろんアカウンタビリティ(説明責任)を果たすということに尽きる。

芸術を通じて、広く社会問題を解決するというビジョンがあり、それを実現したいと考えるなら、本気で取り組むべき良い時期に来ている。

2013/7/1
公認会計士 五十嵐 友彰

24/06/2013

コラム Vol.26 【アートとカネ②〜価値の評価〜】

M&Aという言葉はよく耳にされると思う。会社を売ったり買ったり、くっつけたりバラバラにしたりする事だ。
また、IPOという言葉もご存知ではないかと思う。会社の株式を証券取引所で売り買いできるようにする事をいう。

このM&AやIPOをする時には、私のような生業の人間がその会社の価値を評価する。「御社の価値は80億円です。なぜなら・・・・。」という報告書を作って渡す。というのも、こういった株を使った取引(=エクイティ・ファイナンス)においては、前提としてその会社の価値がいくらなのかが分からないと取引金額を決められないからである。経営者、特にベンチャー起業家にとっては、M&AやIPOというのは経営におけるひとつのゴールであり、企業価値の大小は死活問題となっている。

さて、芸術とお金の関係を考える時に、寄付や助成に頼らないとすれば、エクイティ・ファイナンスというのは絶対に外せない選択肢である。つい先日も金融庁が株式発行市場における規制緩和に向けた議論(クラウド・ファンディングなど)を始めたことが大きく報道されたが、先行するアメリカの法律を見ると、日本でも芸術産業に合った制度設計となる可能性があり、非常に期待される面がある。今までよりも、小口/短期/簡単に株を使ってお金を集められそうだ。

もしもアーティストや芸術産業関係者の方々が、エクイティ型の資金調達(=借金みたいな返済義務のない、株などを渡して、代わりにお金をもらう事)による継続的な事業展開を目指すとしたら、その価値を「いくら」と評価されることになる。

「アートの価値など、どうやって評価するのか?」とか、「崇高なる芸術の価値を、卑しいカネという尺度で測るとは許し難い!(怒)」と言われそうで怖い。

企業価値評価のやり方は色々あるのだが、例えば会計基準との関係で言うと、国際的な財務報告基準(IFRS)では、計上できる無形資産の例として演劇、オペラ、楽曲、写真などが挙げられており、計算方法も実務上ある程度定着したものがある。要件を満たせば、これらは資産計上してよい。また、会計上は資産にできないものであっても、企業価値を計算するにあたって考慮に入れるべき無形の要素はいくらでも有り得る。

そして、それをお金の出し手に対して合理的に説明することさえできれば、資金調達は意外と簡単にできるものである。

今後の芸術活動にあたって、「もし自分の企業価値を計算されたらいくらになるか?」という事を意識するアーティストがたくさんいても良いのではないだろうか。そうしないと、投資家からするとカネの出しようがない訳で、もったいない。

2013/6/24
公認会計士 五十嵐 友彰

コラムvol.25 【ドッカイリョク】読み解く力。我々音楽家で言えば「読譜力」とでも言おうか。J.S.バッハは1685年にドイツ中部にあるアイゼナハと言う小さな街で生まれ、1750年ライプツィヒで生涯を閉じた。65歳だった。彼が生きていた時...
21/06/2013

コラムvol.25 【ドッカイリョク】

読み解く力。我々音楽家で言えば「読譜力」とでも言おうか。

J.S.バッハは1685年にドイツ中部にあるアイゼナハと言う小さな街で生まれ、1750年ライプツィヒで生涯を閉じた。65歳だった。彼が生きていた時代と言うのは今から約300年~250年程前の事である。

クラシック音楽は別に彼に始まったわけでもなく、そもそもクラシック音楽というジャンルが何かのきっかけで生まれたのではない。音楽史学、歴史学の観点からみればバッハは非常に新しい作曲家とも言える。いつどこでどのように音楽は生まれたのかなんて話はとてつもない壮大な話になるわけで…。

先日、作曲家の加藤真一郎氏の作品を東京文化会館で行われた「プレゼンテーション」というコンサートで演奏(初演)させて頂いた。いわゆるゲンダイオンガクである。日本人作曲家による日本国での最も新しい作品がそこで産声を上げる。日本を代表する作曲家の方々も多く来られていた。

作品を初演するにあたって作曲家からの直接指導をお願いした。これは、普段ベートーヴェンやショパン、バッハなどを演奏する我々にとってはとても貴重な経験である。作曲家ら直々その作品の解釈を教えてもらえる。それはとても有意義な時間であった。そして加藤氏はこう言葉を残した「作曲家の意図を全て楽譜に記すことはできない」と。それはとても印象的な言葉だった。以前からそれを他の作品でも強く感じていたが(むしろ作曲家の意図を全て楽譜に記すことが出来る、という事の方が不自然である)、実際に作曲家本人からそれを耳にし、さらには作曲家の意図を直々にうかがえることは”状況として”我々演奏家が普段ベートーヴェンやバッハを勉強することとは異なる。前者は記譜されている事と作曲家の意図の「明確な距離」を知る事ができ、後者はあらゆる音楽的知識と経験による「推測の域」を出ない。

300年前の人間と今生きている人間とは何の違いがあるのだろう?ある意味「違いなんてなんにもない」のかもしれない。バッハだからこう弾くこう表現する、ショパンだからこう、ストラヴィンスキーだから、武満徹だから、加藤真一郎だから、とは何を意味するのだろう?作曲家は「楽譜」によってのみ、その「伝えたいもの、表現したいもの」を残す。僕らはそこから読み解かねばならない「これは一体なんなのか」ということを。明確な距離を知ったところで、推測の域を出ないところで、演奏者自身がまず「音から感じ得る事が出来なければ何も始まらない」のだ。導くのではなく導かれなければならない。

300年前の人間も、道端に咲く一輪の花に美しいと思えたはずだし、大切な人を失えば悲しいと思っていたはずである。そしてその気持ちは今生きる我々も変わらない。300年前も今も変わらない。僕の師事した先生はこう言った「モーツァルトの腕を切ったら何色の血が出ると思う?我々と同じ赤色だよ」と。バッハを弾こうが加藤真一郎を弾こうが何も差異はないわけで、楽譜によって導かれる精神性や感情に対話する。そうしてようやく、演奏表現における様々な事を導くことができ、作曲者の背景が意味を成し始める。

なんてピアニストとしての専門的な事を今回は書いてしまいましたが、ようするに・・・なんでしょう?個々の読解にお任せします。おわり。

P.S.画像はクルターク作曲ヤテコック(遊び)より「パガニーニを讃えて」の一部です。音符が少し大きいですね。草野心平の詩「冬眠」を思い出しちゃいます。

17/06/2013

コラム Vol.24 【アートとカネ①〜公的支援〜】

「芸術は国のカネで保護すべきであるのに、日本政府は芸術に対して理解がなく、公的な支援が過小であるために衰退している」といった話はよく耳にする。

芸術に対する国の支援は、文化庁予算やNHKの番組放送などを通じて行われているのだと思う。このうち前者の方針について閣議決定された文書が同庁のホームページに記載されていた。

http://www.bunka.go.jp/bunka_gyousei/housin/kihon_housin_3ji.html

この中で、以下の一文にとても違和感を覚えた。

『文化芸術は,国家への威信付与,周辺ビジネスへの波及効果,将来世代のために継承すべき価値,コミュニティへの教育価値といった社会的便益(外部性)を有する公共財である。』

芸術=公共財、と言っているのだが、全く意味が分からない。

「外部性」というキーワードと組み合わせて使っていることからして、ここでいう「公共財」というのは経済学における用語であることは自明である。しかし、財やサービスとしての芸術は、公共財の要件(①消費者のフリーライドを排除できない、②消費の競合が起こらない)を満たさないのが通常であり、芸術=公共財、というのは論理破綻だと思う。

また、外部性というのは、ある主体の経済活動が他の主体の厚生に影響を及ぼすことを言うが、例示列挙されている外部性の例は、いずれもあまりに漠然としているし、そのような外部性が本当にあるのかどうかが疑わしい。

今週末は都議会議員の選挙があって、選挙カーがたくさん走っているけれども、もし「芸術は公共財だ!だから、税金を使って保護すべきだ!!」と叫んでいる候補者がいたら、私なら絶対に投票しない。

まあ、公共財かどうかは置いておくとして、外部性に関する説明の方は極めて重要である。芸術がもたらす厚生をどう表現するのか、というアカウンタビリティの問題だ。

芸術の生産活動には相当なカネが必要であり、政府部門からの支援は芸術産業関係者から強く期待されている。国のカネというのは、つまり原資は我々の血税だから、究極的には有権者の過半数を納得させることができるロジックなしに、カネを引き出すのは難しい、というか、許されない。

芸術の厚生を具体化して述べるべきかどうか、という点については賛否両論あるようなので、この辺り、芸術関係の方のご意見をじっくり伺う機会も作りたいと思う。

2013/6/17
公認会計士 五十嵐 友彰

コラムvol.22 【半学半教と愈究而愈遠】慶應義塾の関係者なら非常に馴染みある言葉であるが、それ以外の人間にしてみたら初めて耳にする人も少なくない。「半学半教」とは「共に学び、共に教え合う」ことである。では「愈究而愈遠」とは?慶応義塾のホ...
13/06/2013

コラムvol.22 【半学半教と愈究而愈遠】

慶應義塾の関係者なら非常に馴染みある言葉であるが、それ以外の人間にしてみたら初めて耳にする人も少なくない。「半学半教」とは「共に学び、共に教え合う」ことである。では「愈究而愈遠」とは?慶応義塾のホームページには以下の説明が載っている。

(以下引用)この「半学半教」はあくまでも学科課程が未整備の段階で、教員の資格についての法的規制がゆるい時代のことであり、かつ財政基盤の弱い私学がやむをえず行った教育方法であって、これはもちろん好ましい状態ではなかった。しかしこの仕組の根底には、学問は上達すればするほど奥深く、それを究める事は一層難しくなるもので、学問の完成とか成就ということは永遠の課題なのだという考え方、すなわち福澤先生が好んで揮毫した「愈究而愈遠(いよいよきわめていよいよ遠し)」の思想が潜んでいることを見逃してはならない・・・

僕は慶応の関係者ではないのでそれ以外の事に関しあまり詳しくは解らないが、少なくともこの二つの言葉を知った時ふと思い出した事があった。それは僕が師事した先生たちの「言っていたこと」や「教育、生き方、音楽芸術への取り組み方」等の姿勢である。全くと言っていいほどその精神は同じであり、そこから学び得ることは余りにも多かった。

ドイツにいたころ、師事した先生たちは共通して「レッスン」のことに対し「zusammen arbeiten(英:zusammen=together, arbeiten=work)」という言葉を頻繁に使っていた。勿論いろんな言い方をすることもできるが、けれど共通していたという事実は非常に興味深い。そこには「先生と生徒であり、私があなたに何かを教える」という姿勢ではなく、「音楽芸術、それらの作品に対し”共に”立ち向かって創っていこう」というニュアンスが強く含まれる。先生と生徒という関係ではなく、作品の前では音楽を愛する皆同じ人間である、仲間であるという意味での平等性がある。そしてレッスン後に先生はいつも僕に「ありがとう」と言った。初めは「なぜありがとうと言うのだろう?僕が言うべき事なのに」と思ったが、尋ねてみるとこう答えた「私も今日タダシから多くを学んだからだよ」と。僕が先生に何かを教えたのか?と不思議に思ったが当時の僕はこの関係性にとても人間的な温かさを感じた。日本帰国直前のレッスンでは、先生は最後まで楽譜に対し疑問をぶつけていた。逆に僕に「ここはどうすればいいのだろうか?」と質問することもあった。…仲間であり、チームである。僕はそんな先生に更なる信頼と尊敬を覚えた。先生はその10ヶ月後に他界する。

帰国後、大学で教えるようになって早6年。ふとその時のことを思い出す。知れば知るほど、経験すればするほど「半学半教」「愈究而愈遠」を思う。作品と対峙し続ける日々、毎時間、毎分、それを思う。深く暗い森の中を歩いているかのように進めば進むほど先に見えてくるものに魅せられる。届きそうで届かない。もしくは、既に届いているけれど(進むからこそ)更に届くものが見えてくる、という事なのかも知れない。教育現場ではそれでも多くの失敗を重ねた。教育とはその一言で活かすことも出来るが殺すことも出来てしまう恐ろしいものである。生徒たちは、生徒である前に「人」である。僕は彼らの何を見ているのだろう?自身の未熟を知る。彼らによって僕は教えを学ぶ。彼らによって新たな気づきをもらう。彼らによって自分自身を見る。

半学半教と愈究而愈遠。これはもはや学問だけの言葉に在らず人生そのものである。人生そのものが学びに満ちている。そして感謝を、信頼を、尊敬を知る。あの先生に出会えてよかった、あの生徒に出会えてよかった、結局は出会いであり、「人と人との対峙」から全てが始まるのかもしれない。

2013/6/13
ピアニスト 末永 匡

09/06/2013

コラムvol.21 【shoot】

私は写真を撮るのも撮られるのも嫌いで、海外旅行にもカメラを持っていかないし、携帯の写真機能も年に何回かという位しか使わない。

けれど、アーティストが作品を創るという作業に関することは別だ。

プロのフォトグラファーに初めて撮ってもらったのは確か19の時。
プロのアーティストに撮られるということは、例えばどんな「演技」も意味を持たず、服も剥がされて骨の芯まで見透かされているようなことだと悟った。
カメラのレンズを通した彼の眼が、冷徹な生き物のようで、怖かった。
彼は「由香里の10年後の顔を撮った」と言った。
不思議な写真だった。
10年経って、改めて見て、納得して、そしてやっぱり不思議なことだと思った。

2年前にAlessio Guarinoというイタリアのトップカメラマンと一緒に作品を創る機会があり、遊びで彼に撮ってもらった。
世界中で、色々な人種・民族の人々を撮っているはずの彼に「日本人を撮るのって、どんな感じ?」と聞いたら、一瞬考えてから「いや、由香里は日本人を撮っているって感じじゃないな。Universalな感じだ」と言われた。
彼は建築が専門のフォトグラファーなのだが、「人間のBodyは建築と全く同じだ」と言っていた。

そんな彼が向けるレンズと構図は、一瞬にして正確で迷いが無く、体や顔の骨格のフォルムがそのままに美しく捉えられている。味気ないほどに。冷たく。
私は、自分が建造物になったように感じた。

いずれにしても、フォトグラファーとの撮る/撮られる関係は、いつも真剣勝負で、畏れを感じるものだ。
けれど、その不思議さに魅了されて、写真嫌いなはずなのに、自ら歩み出てしまう。

それが、内面を撮っているようでも、外面を撮っているようでも、私たちの肉眼では捉えられないものが写っているのだ。彼らの眼=レンズ、その謎と凶器/狂気。

彼らは写真を撮ることを、”shoot ”と言う。
射抜かれる、あの感じ。
言いえて妙だと、いつも感じる。

石野由香里

コラムvol.20 【ではお前だったらどうするのか?と自問する】例えばコンサートで配られるプログラム。そこに載っている曲目解説。「聴衆の中でどのくらいの人達がこの文を理解しているのだろう?」と思う。専門の方々はもちろん、音楽愛好者の方々には...
04/06/2013

コラムvol.20 【ではお前だったらどうするのか?と自問する】

例えばコンサートで配られるプログラム。そこに載っている曲目解説。「聴衆の中でどのくらいの人達がこの文を理解しているのだろう?」と思う。専門の方々はもちろん、音楽愛好者の方々にはとても刺激的な文なのかもしれない。しかし(特定のコンサートを除いて)そうではない聴衆も多いのではないだろうか?そしで僕は曲目説明の位置づけについてふと思う。これは、当日プログラムとして来られる全ての方々に配られるという事は全ての人達に「解ってほしい」のであって、決して一部の方々のみのために用意されているものではない。作曲家や作品の背景等はいいとしても、作品の楽章ごとの説明は(知っている人にとっては非常に基礎的な言葉であっても)一つ一つの言葉に説明が必要なくらい専門用語に溢れている場合が多い。これは「解らない人は読まなくてもいいよ」ってことなのか?そしてその場は「これどういう意味?」と聞くに聞けない悲しい雰囲気に満ちている。いずれにしても、徹底した曲目解説等を知りたければ、専門店に行けば充実したラインナップと出会えるのである。

個人的にクラシック音楽とワインの世界はなんでこんなにもうんちくが多いのか辟易しているが、もっと簡単な言葉で多くを理解することはできないのだろうか?これらのジャンルに限らず、時に横文字が多い文も”その一つ”である。勿論、それらの言葉があるからこそ簡素に文をまとめ、多くを伝える事が出来るのだが、しかし本来それらの情報とは「人に理解されるべき」ものであるはずである。

クラシックコンサートで「敷居が高い」と言われることが多々あるが、その一つの原因として排他的に思わせてしまう曲目解説も含まれるのかもしれない。もっとも「どういうところに敷居が高いと感じるのか」というアンケートがあると面白いかもしれないが。

僕の尊敬している先生の一人に、野本由紀夫氏という方がいる。学生時代、彼の講義はとにかく人気があった。教室に人が入りきらないほどに。なぜだろう?それは「解りやすい」からである。そして彼はレクチャーで日本全国に呼ばれている。彼のレクチャーは専門の人ではない方も来られ、こう口を開く「難しい言葉がなく解りやすい。そして楽しい」と。僕もそのレクチャーを聴講しに行くが、それは決してドラマティックで華やかなプレゼンではないけれど、人間味溢れ、ウィットに富み、簡単な言葉で、多くの理解に導いてくれる。

これは音楽に限っての話ではない。基本的に話の面白い人はどのようなジャンルでも言葉がシンプルであり、そしてその言葉がスッと体に入ってくる。

2013/6/4
ピアニスト 末永 匡

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