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板東秀行・おにやんまのブログ ヴァンガード経営研究所(VAN-KEIEI)は、企業経営に役立つ公開セミナーや?

企業経営を支援するヴァンガード経営研究所です。人財づくりを中心にとしたコンサルティングは、長年の経営体験とサポート実績に基づいています。企業内社員研修プログラム、特に行動科学に基づく脳力開発とマネージメントゲームをお勧めします。また、企業経営者や社員を対象とした公開セミナーを全国各地で開催しています。

ヴァンガード経営研究所の基幹事業は3つです。
 1.公開セミナー  脳力開発・人間学、MG/CFMG、企業会計塾 ほか
 2.企業内研修  階層別、職種別、内容別に多種多様なプログラム
 3.経営サポート  企業理念、経営戦略、事業再建、事業承継 など

Vol.1252無配当経営から目指すもの  #人を大切にする経営塾経営のことは月曜日の『実学戦略会計』でも書いていますが、ここでは主として「人を大切にする経営事典」の中から引用しながら書いています。その中に表題の『無配当経営』という言葉があ...
10/06/2026

Vol.1252
無配当経営から目指すもの  #人を大切にする経営塾

経営のことは月曜日の『実学戦略会計』でも書いていますが、ここでは主として「人を大切にする経営事典」の中から引用しながら書いています。

その中に表題の『無配当経営』という言葉がありました。

赤字で配当したくてもできないという会社、あるいは個人事業でそもそも配当という手段がないという企業は別ですが、多くの法人は配当を出しているでしょう。

今月は3月末決算企業から株主総会の案内が届いていますが、議案書の中にも当期(半期)の配当についての項目があります。

業績がさらに上がったのでしょう、軒並み前期配当よりも増やしているようです。株主としてはとっても有り難いことではあります。

でも中には好業績ですが配当を出さないという会社もあるのです。オーナー企業で、オーナー社長が株式の100%を持っているというわけではなくです。

つまり中には、起業家や経営者が「世のため人のために」といった思いで経営を行い、その思いに共鳴して無配当条件でも出資するというケースも皆無でないのです。

ある会社は「社会に役立つ企業」を目指し、そのためには社員とその家族にもっとも報いることが大事だと、社員還元第一を旨とされています。

配当はするけれど、自分の持株は全て奉仕団体の持株としてそこで役立てる、としているオーナーに出合ったこともあります。

こうしたか価値観をどう思うかはそれぞれの人の自由ですが、私も個人事業主として、できる範囲での寄付金奉仕を毎年行っています。

一時はリターン期待でのふるさと納税もやりましたが、現在は寄付金控除だけに留めています。クラファン応援も見返りを求めない中でやろうと心がけています。

微々たる事ではありますが、自分のできる範囲の中で、これからも「世のため人のために」ということを実行していこうと思います。

Vol.1251橘諸兄に学ぶ絶頂の時  #歴史に学ぶ脳力開発最高権力を握った藤原不比等(藤原鎌足の次子)は、律令の運用についてのリーダーとして、皇親勢力のトップである長屋王ともバランスをとります。そして文武天皇に嫁いだ宮子が生んだ首皇子(後...
09/06/2026

Vol.1251
橘諸兄に学ぶ絶頂の時  #歴史に学ぶ脳力開発

最高権力を握った藤原不比等(藤原鎌足の次子)は、律令の運用についてのリーダーとして、皇親勢力のトップである長屋王ともバランスをとります。

そして文武天皇に嫁いだ宮子が生んだ首皇子(後の聖武天皇)には、末子に当たる光明子を嫁がせ、将来を見越した手を打ってから亡くなります。

この光明子(後の光明皇后)の母が県犬養三千代、15歳頃に宮中の女官(命婦)となり、和銅元年(708)に即位した元明天皇から橘宿禰姓を賜ります。

そのくらい即位前の天皇から信頼されていたわけで、もちろん頭脳も明晰だったのでしょう。敏達天皇系の美努(みぬ)王に嫁ぎますが離縁し、不比等に再嫁します。

その美努王との間に生まれた内の一人が葛城王、臣籍降下して橘諸兄となります。つまり光明子とは異母兄妹であり、和銅3年(710)頃から順調に昇進します。

そこには母の三千代の力が大きかったと思いますが、橘姓を名乗り始めたのは天平8年(736)からと言われています。

ちょうどその前辺りから都には天然痘が大流行し、長屋王亡き後に朝堂を牛耳っていた藤原四兄弟が次々に亡くなりました。

諸兄は急遽大納言に抜擢され、天平10年には右大臣となって一躍太政官の中心的存在となりました。親族や部下たちを次々に高官につけて、橘諸兄政権を確立します。

この動きに反発した藤原広嗣が九州で反乱を起こしますが、これを平定して天平15年(743)にはトップの左大臣に。

天平感宝元年(749)にはついに正一位に上りますが、生前にこの位階に上ったのは諸兄を含めて史上6名だけです。

しかしこの年聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が光明皇太后の紫微中台トップとして力を強め、相対的に勢力が後退します。

また息子の奈良麻呂が仲麻呂への敵意から謀反を企てるなどの動きがあり、諸兄は急速に失脚してしまいます。

天平勝宝8年に職を辞して翌年正月に死去、享年74歳。その後すぐに奈良麻呂は乱を起こして失敗、これにより橘氏の力も失われます。

絶頂の時にこそその先を読んで手を打たなければならない、そして崩れる時には身内から大きく崩れていくもの、諸兄の後半生はそのことを教えてくれます。

Vol.1250人頼りの姿勢の本質  #脳力開発他人は自分の思うとおりにならないとか、他人を変えることは不可能なことだとか言うが、実は別の側面を持っていることに気付きませんか。現場の仕事は部下に任せた方がいいと、講演でも講師が何度も何度も言...
08/06/2026

Vol.1250
人頼りの姿勢の本質  #脳力開発

他人は自分の思うとおりにならないとか、他人を変えることは不可能なことだとか言うが、実は別の側面を持っていることに気付きませんか。

現場の仕事は部下に任せた方がいいと、講演でも講師が何度も何度も言われていた。しかし私の会社では、カンタンなことであっても任せきれないのだ。それくらいはサッサと気付いてやれよと思うのだが。

とにかく私が指示を出さないと全く動いてくれない、気が利かないというのか、要するに人材がいないんだよね。

とまぁこんな風に溜息をついている社長さんはいらっしゃいませんか。一度社員に任せてみたんだがちっとも期待に応えてくれない。

おそらくこの社長さんは、会社の中だけではなく家庭であっても、また所属している会や活動の中でもぼやいているのではないか。

自分はこうなのに、他人は自分のようにはなってくれていない、自分がやってほしいようには動いてはくれないと。角度を変えるとこういうふうにもとれる。

他人を非難しているわけではあるけれど、その実は、自分はよく気が付く、自分なら何でもできるんだと言ってはいないだろうか。

自分は人に尽くす人間であって気が利くし、誰に言われなくても自分から行動している(素晴らしい)人間なんだと。

もし本当にこういう頭の構造になっているのだとしたら、この社長さんは自己認識と自己主張とがいつも前面に出ているわけで、その観点に合わない他人はダメなのであり、ケシカラン人間(ばかり)だと言っている。

これでは他人との関係がうまくいくはずがない、うまくいっているのだとしたら、彼をよく知る人たちがガマンしているか、あるいはあきらめているのだろう。

確かに世の中には当たり前という構造、いわゆる普遍性が多数なのだけれど、それでも一人一人はそれぞれ違った条件の中で成長し、異なった経験を積んでいる。

だから基本的な脳の構造は普遍性で判断して行動するのだが、細かなところでは特殊性(反応)が表に出てきてそれぞれが違うことも少なくない。

だから他人がみんな、自分と同じ反応を示すことを期待してもダメなのである。立場も違う、社長と社員の立場の違いなどその典型なのだ。

100%同じようには動かない、でも何%かは同じような反応をすることがあるし、同じ動きになることもある。根本は異なっていても、此方から合わせることは可能だ。

そういったことを踏まえて、「人頼りの姿勢」に陥らないためにどう動くのがいいかを考えて行動したい。

Vol.1249無借金経営は夢か  #実学戦略会計現在の私の会社(ヴァンガード経営研究所)は無借金経営です。すごいわけではありません。個人事業の会社であればそんなところは掃いて捨てるほどあります。借入金がないのではなく、借入が必要ない、でき...
07/06/2026

Vol.1249
無借金経営は夢か  #実学戦略会計

現在の私の会社(ヴァンガード経営研究所)は無借金経営です。

すごいわけではありません。個人事業の会社であればそんなところは掃いて捨てるほどあります。借入金がないのではなく、借入が必要ない、できないだけです。

当社は借入する必要がないのですが、中には借入れをしたいけれど貸してもらえないという個人事業の方もいらっしゃいます。

法人企業の多くは借金をしています。借金の形は様々ですが、大きいからこそ借入金は大切な要素であるとも言えるのです。

個人事業では資本金という科目は使わず、開業時に出資(現金と現物)したもの(開業資金)を元入金という科目で勘定します。

法人の場合には資本金という項目が社長個人の出資金を含めた、周囲の方々からの出資金に当たることになり、これについては増減資しなければ変わりません。

赤字については資本金を頂点としたBSの「資本の部」の中に数字が現れます。累積赤字なのか、当期だけの赤字なのかも明確に示されます。

私が出向した販売子会社には累積赤字があり、別途積立金という科目をほとんど食い潰した状態でリスタートしたことになります。

当時の自己資本比率は8~9%、要するにほぼ借金及び親会社への買掛債務で成り立っているという会社でした。これを何とか30%くらいに引き上げたい、少なくとも債務超過はない状態を維持していかねばならない。

PLの体質改善が終わった段階で、本格的にBS的体質改善に取り組みました。幸い累積赤字をゼロにするのと並行して、不良貸付金というウミをゼロにできました。

絶対に返済してもらえない、という証明を書類として準備し、約1千万の負債を一気にキャッシュフローに影響しないで処理しました。

次は不良在庫処理です。やり過ぎますと税務署の調査を受ける心配がありますので、期末の不突合くらいからボチボチと。

Vol.1248一週間を振り返って   #朝の散文波乱の一週間でした。同時に色んな事を改めて考えさせられる、ある意味では考え直しをする時間であったと感謝しています。調子がおかしいなと感じたのは一週間前の日曜日、5月最終日ということで締めくく...
06/06/2026

Vol.1248
一週間を振り返って   #朝の散文

波乱の一週間でした。同時に色んな事を改めて考えさせられる、ある意味では考え直しをする時間であったと感謝しています。

調子がおかしいなと感じたのは一週間前の日曜日、5月最終日ということで締めくくりをキチンとやらねばと思いつつも、鼻や喉の具合がイマイチだなとは気が付いていました。

それでもたまにあることと高をくくっていて、月曜日の朝もいつものように早起き、Clubhouseルームでお話をすることになっていたのが喉に違和感。

何とか与えられた25分間は乗り切りましたが、本調子じゃないことは自覚。さりとて熱もない(36.6度)し、予定通り孫の運動会見学に出かけました。

坂道を上る脚が重いことや喉の渇きを感じましたが、気温が上がってきたせいだろうと軽く考え、午前の部が終わったところで帰宅。

昼食後に検温したら37.5度、アレッと思いつつその日もいつもの通りの仕事をこなしましたが、悪寒も感じるようになり、測ると38度を超えていました。

家族に正直に話してすぐにかかりつけ医に行けば良かったのが、一晩寝れば治ると意地を張ったのが、かえってみんなに迷惑をかけました。

翌朝は熱は下がっていましたが直ぐに医者に。幸いに感染症検査は陰性でしたが、風邪の診断で抗生物質などを処方していただきました。

日々の仕事は「連続継続」のものだけに留め、睡眠をたっぷり取って朝も4時起きではなく6時起きに。ほぼ元通りに仕事を戻したのは昨日土曜日でした。

その間に事業は創業から19年目に突入、新たな挑戦としてとある資格取得を目指していますが、その最初の取得試験も金曜日に無事受けることができました。

心にも体にもバッファ(余裕)を持ってといつも皆さんに呼びかけていましたが、自分に一番必要なことでした。

挑戦の心を維持するためにも大事なことなんだと強く感じたこの一週間でした。

Vol.1247ローカル線を振り返る(9)細島線  #趣味鉄・乗り鉄ローカル線の旅も9つ目ですが、細島線のことは殆どの方が知らない、知っているとしたら相当の鉄道マニアといって好いでしょうね。私がカメラを抱えて初めて九州を旅した1971年には...
05/06/2026

Vol.1247
ローカル線を振り返る(9)細島線  #趣味鉄・乗り鉄

ローカル線の旅も9つ目ですが、細島線のことは殆どの方が知らない、知っているとしたら相当の鉄道マニアといって好いでしょうね。

私がカメラを抱えて初めて九州を旅した1971年にはまだありましたが、翌年には旅客列車が廃止されて貨物線になり晩年は1日1往復の貨物列車のみでした。

起点は宮崎県の日豊本線富高駅(現在は日向市駅)、東にレールは延びて細島港に隣接した細島駅までたった3.5kmのミニ路線でした。

宮崎本線の開業と同じく大正10年(1921)に細島軽便線として開業、翌年に細島(ほそしま)線と改称されました。

戦後中間駅も設置されましたが旅客は少なく、細島港に上がる貨物を延岡などに運ぶ貨物輸送が主体でした。

細島駅からさらに東に宮崎県営貨物線が延びて(0.8km)いて、倉庫群の荷物の運搬に当たっていたそうです。

前述のように昭和47年(1972)に日豊本線の貨物支線となり、分割民営化ではJR貨物に継承されますが、平成元年(1989)に休止、4年後に廃止されました。

私も乗車機会がないままに通り過ぎましたので、ネットの中より貨物牽引機の78626号の写真(おそらく細島駅)を借用します。

78626号は1924年に川崎造船所兵庫工場で製造されたSLで、九州に配属され昭和43年(1968)に南延岡機関区にやって来ています。

貨物牽引機をDE10形ディーゼル機関車と交代して昭和49年(1974)に廃車、現在は福岡県遠賀町の総合運動公園に保存されています。

屋根付き保存ですが、伝聞によると欠損や腐食が激しく状態はかなり良くないようです、整備が望まれます。

Vol.1246徳川の嫁という矜恃を貫いた天璋院  #歴史人物語り前週は徳川13代将軍の家定を取り上げましたが、この人を避けては通れません。継室、3人目のご正室であった天璋院篤姫です。将軍の正室となると五摂家からということで、お名前は藤原敬...
04/06/2026

Vol.1246
徳川の嫁という矜恃を貫いた天璋院  #歴史人物語り

前週は徳川13代将軍の家定を取り上げましたが、この人を避けては通れません。継室、3人目のご正室であった天璋院篤姫です。

将軍の正室となると五摂家からということで、お名前は藤原敬子(すみこ)・篤君。近衛家の養女として嫁いでこられました。

実際は薩摩島津家の当主斉彬の養女で源篤子、さらに実父は斉彬には叔父に当たる今和泉島津家の忠剛ですから、篤子と斉彬はいとこ同士になります。

一説には、次期将軍に一橋慶喜を立てようとして大奥に送り込んだといわれますが、縁組み申し入れ時にはまだ家定も将軍ではなかったので、それは後付け伝説。

もっとも、実際の輿入れはかなり遅くなって安政3年(1856)の11月、満20歳の時でした。もっともこの時には斉彬からの密命はあったことでしょう。

そして実際にも家定が「慶喜嫌い」であることを知った篤姫は、慶喜を推挙することはなくむしろ紀州徳川慶福(後の家茂)を推したと言われています。

当初は溝があった夫婦の中は急速に深まっていったようですが、家定は生来病弱で子を為すことができない状態であったといわれています。

それでも篤姫は優しく家定に接し、当初は毛嫌いしていた生母の本寿院ですら、徐々に心を溶かしてきたと言われています。

当然大奥の中での存在感も増していったわけですが、それはとりもなおさず『徳川の嫁』という立場の自覚につながっていったことでしょう。

やがて家定が亡くなり天璋院となり、将軍に家茂が就きますと、本当の親子のようであったといわれるほどでした。

和宮が家茂に嫁いで大奥に入ってからは暫く軋轢も続きましたが、やがて徳川存亡の危機に当たって2人はまさに一致団結して事に当たります。

江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の功労によると言われますが、その裏に天璋院と静寛院宮(和宮)の努力があったことは忘れてはなりません。

江戸城にこだわった天璋院でしたが、勝の説得もあり城を出て各家を転々としながら江戸市中にようやく落ち着きます。

勝との懇談が楽しかったそうであり、時には川船を浮かべて酒を酌み交わすこともあったとか。薩摩の女の本領といったところでしょうか。

明治16年(1883)徳川宗家邸にて脳卒中で倒れ、ほどなくご逝去。享年49歳でした。
徳川の嫁の矜恃を忘れず島津の援助は一切受け付けず、身の回りの品々を周りの者に分け与えてしまい、意外に質素だったと伝わります。

Vol.1245体調が優れないと脳の働きも鈍る  #脳力開発日曜日の午後あたりから少しのどの奥の違和感を感じていたのですが、もともと気温差アレルギー体質ですので大丈夫だろうと高をくくっていました。月曜日は孫が通う中学校の体育祭がありましたの...
03/06/2026

Vol.1245
体調が優れないと脳の働きも鈍る  #脳力開発

日曜日の午後あたりから少しのどの奥の違和感を感じていたのですが、もともと気温差アレルギー体質ですので大丈夫だろうと高をくくっていました。

月曜日は孫が通う中学校の体育祭がありましたので、それを見に行きました。早朝の体温は36.6度でしたし朝のルーチンもいつも通りこなせていました。

気温が高めで午後には真夏日になるという予報で水分補給もできるようにしていましたが、戻り道ではなんとなく身体のだるさを感じていました。

家に戻って体温を測り直したら37.5度、暑いグラウンドにいたせいだろうと思い、家内にも黙っていたのですが、寒気も感じ始め夕方には38.5度に。

その時直ぐにかかりつけ医に連絡していけば良かったのですが、ゆっくり寝れば元に戻ると思ったことが大間違いでした。

確かに夜の間に汗をかいたので熱は36.6度に下がっていましたが、身体のだるさがとれずでしたので医者に行きました。

念の為に感染症の検査をしていただきましたが、幸いそちらの方は大丈夫で「風邪でしょう」ということで薬をいただきました。

風邪薬をもらったのは10数年ぶり、確かその時にはインフルエンザの陽性でした。

体の調子は確かに戻ってきているのですが、まだまだだるさがとれないのは年齢から来る回復力の低下なのでしょう。

それ以上にガツンときたのは頭の働き、つまりは脳の働きが元に戻るのが遅いということです。なるほど体調と脳細胞の動きとは連動しているなということを実感。

こちらの方はもう数日かかるのかもしれません。今一度、伊藤規絵先生の『100歳までボケない脳』を読み返してみて、再点検しましょう。

一日の内にやろうとしていることは、ほぼ100%できそうですが、新しい発想や挑戦となるとしばし待てとという感じです。

ここは焦らないで脳(細胞)も普段以上に休めながら、ボチボチと回復していくことにします。幸い文章は乱れていないようですからホッとしています。

Vol.1244鬼の霍乱から学んだ  #雑文10余年ぶりに風邪をひいて医者に行きました。隔月の定期検診に訪れる先生も「どうしましたか」とびっくりされていました。今年の典型的なはやり風邪ですね。普段から大丈夫だなどと思っていましたが、人並みに...
02/06/2026

Vol.1244
鬼の霍乱から学んだ  #雑文

10余年ぶりに風邪をひいて医者に行きました。隔月の定期検診に訪れる先生も「どうしましたか」とびっくりされていました。

今年の典型的なはやり風邪ですね。

普段から大丈夫だなどと思っていましたが、人並みに感染するのだと安心もしました。10余年前は確かインフルエンザでした。

検査も一応念の為にお願いしましたが、コロナでもインフルでもないということで一安心。抗生物質など薬をいただいてきました。

やはり油断は大敵なのです。一昨日の午後、夕方には38.5℃という体温、その数字を見た途端にぐったり来た感じでした。

幸い、昨日はサッサと寝てしっかり汗もかきましたので、医者に行く前には36.6度まで下がっていました。

鬼の霍乱という言葉が頭に浮かびました。さしずめ私は「越後のおにやんま」ですから、「おに(やんま)の撹乱」なんでしょうね。

ちょっとここのところ走り過ぎていたのでしょう、ちょっと休みなさいよと天の神様から忠告されたのだと思います。

家族にも大変迷惑をかけました、反省しています。

日々のルーチンワークの休止も伴いましたが、それはそれでよしということで。体調が悪いと頭に巡りも悪くなりますね。

Vol.1243天命とする道を福業として選びました  #脳力開発フクギョウと書いて、副業とも複業ともそして福業とも記すことができます。一般的に使われているのが副業で、いわゆる本業に対してサイドビジネスといいます。一般的には本業の片手間にやる...
01/06/2026

Vol.1243
天命とする道を福業として選びました  #脳力開発

フクギョウと書いて、副業とも複業ともそして福業とも記すことができます。一般的に使われているのが副業で、いわゆる本業に対してサイドビジネスといいます。

一般的には本業の片手間にやる程度で、趣味を活かしてといったようなことも多いようです。あくまで主体は本業で、ジャマになるようなことではいけません。

私自身で振り返ってみると、マネジメントゲームの講師として自社の社員研修の延長で始まったものが副業と言えました。

元々社員を対象とした研修でしたが、外部の希望もあって受け入れ始めたのが最初。会社と経理を分けた方がいいという税理士さんのアドバイスで任意団体を創りました。

研修参加費をその団体で受け容れて、費用もそこから捻出、赤字になってはと心配することもありましたが、幸い蓄積もできてきました。

そうなると親会社に籍がありますから、親会社のルールに触れてはいけませんので、就業規則を確かめた上で社長にも了承していただきました。

販売子会社には通算で16年半出向しておりましたので、そういう副業状態もそれだけ続いてことになります。社員研修だけでなくコンサル的な活動をやりました。

その間に9年目からは子会社の代表取締役社長にも就任、本業との平行になりましたので、副業ではなく複業と呼んでもいいかなと思いました。

幸い本業も順調でしたので、とくに後ろ指を指されることもなかったのですが、やはりそういう状態を好ましからぬと見ている向きもあったようです。

そこで私の方から転籍を願い出たのですが、ちょうど親会社の社長交代の時期とも重なって有耶無耶のままで過ぎてしまいました。

そこで独立創業を目指そうとしたのですが、転籍以上に認めていただけない感じでした。キチンと毎年利益を計上していましたが、やや業績頭打ちを問われました。

転籍の代わりに待っていたのは親会社への復帰、当てつけに「逆単身赴任」を選んで与えられてミッションを1年半でまとめると退職を願い出ました。

今後は福業を目指す、本当に自分のやりたいことをやるのだと決心し、荒波覚悟の上で早期退職の道を選びました。

それから18年、昨日が創業記念日でしたが山あり谷ありの体験を重ねて、なお自分のやりたい仕事を天命としてこれからも進んでいきます。

師匠である城野宏さんの提唱された脳力開発・情勢判断学を、自らの実践体験で得た事から『自律脳力開発学』として語り続けること、それが私の天命です。

住所

西区小針藤山
Niigata-shi, Niigata
950-2021

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