12/06/2026
商売に勝つか負けをしきりに口にする人がいますが、何を考えておられるのでしょう。経営は戦いだ。販売合戦、人生これ戦いと、勇ましい人もいます。
いったい誰と戦っているのでしょう。だれと戦いたいのでしょう。まさかそんな勇ましい争いごとの相手がお客様ではないでしょうね。
誤解して欲しくはないのですが、戦いという言葉尻にもの申しているのではないのです。現に私は脳力開発講師、経営指導家として、「戦略」という言葉は、他の人より多用しているので、言葉の魔女狩りなら男だが魔女狩りされる立場にあるわけです。
そんな言葉の問題ではなく、「意識」の問題として、商いの本質はと戦いの本質は違う。否、相反するものだ、といいたくて取り上げているのです。念のため、申し添えておきます。
商いは戦いや争いや、権謀といったものとは別の世界です。
ですから少なくとも、あなたの企業やお店を支えて支持される消費者を、敵視し、戦いや争いの対象にすることはいかがなものか、と思いあまって申し上げているのです。
商いは庶民の日常の生活を守る、ごく平和な、崇高な業だと思うのです。
死の商人とか悪徳商人とか、御用商人という言葉があることが、商人そのものが、そうでない崇高な存在、イメージであることを裏付けていると思います。
ですから 商いで肝心なことは、そんな物騒なことではなくて、消費者のおひとり、おひとりが生活の中で、個々に感じておられる想いにどれだけ共感するか、できるか、ここに戦いではない意識のフィールドを置いて、考え、働くことだと思います。
これができていない、またはここからはみ出ると、商いが狂う、売れない、経営がおかしくなる、といったことが起きる。私は、そんなふうに考えています。
よく「原点に戻れ」といいますが、その原点が、どこか、何か、といったことが長い間私には分からなかったのですが、今は、ここ、とはっきり言えます。迷ったら、ここへ戻って考え、行動してみればいいのです。
「共感?そんなことわかっているよ。やっているよ」と、よく言われます。
でも。
ほとんどの商人が、といったら叱られそうですが、たいていは、自分の「想い」を、消費者に共感させる、といったことに始終しています。
これを強い口調で言うとしたら、「俺の思いがお客には分からないのか!」ということになり、「いやでも判らしてやる。それチラシだ。それ激安だ。なにくそ価格ではあいつらに負けてなるものか」、ということで、平和で崇高な業が荒んできて、いけいけ、どんどんと冒頭に述べた戦いの世界になってしまうのではないでしょうか。
間違ったとおもったら引き返せばいいのに、「男(女)、前進あるのみ」、「敵に尻向けてなるものか」と、突き進んでしまう。自分が全然経営的ではない考えに陥っていることにも気づかない。これ、やけくそ、というのですがね。
そうした企業はすぐ分かる。現場、従業員さんが荒(すさ)んでいますからね。荒みはどこか言動、場に出るものです。そうした言動、場をお客様が見られたらどうでしょう。
いやです。戦いはみないやです。
ですから消費者が背を向けて逃げる。もう行きたくないって。
こんなふうに、戦いの論理は、目に見えないところに消費者を遠ざける流れをつくってしまうのです。
対して、共感は、消費者の思いを感じるわけでし、その思いを果たすと言うことにでもなれば、消費者は大歓迎。みなそうした企業やお店の後押しするようになる。見えないところで、消費者が支持、応援してくださる。そうした流れが出来たら、もう盤石です。本来、商いはそうしたもの。
歴史をみたら、平和な時代に商いが栄えている。商人がいきいきしている時代は、平和な時代なのです。戦いの時には、まっとうな商人は消え、死の商人がうごめいている。
今はどう見ても平和。商人の時代だと思うのです。