26/05/2026
お知らせする事はあれこれあるのだけど、たまには少し思った事を記録する。
こないだ埼玉レッスンの後に、私がこの世の麺類で一番好きな
きせん食堂のラーメンについて語る事があった。
きせんのラーメンは、私にとっては食べ始めから"終わる事が寂しい"と思えるものだ。小麦の香りがして歯茎が喜ぶ麺の歯応えも、
香ばしく脂身の少ない肉の味がしっかひしたチャーシューも、
しつこさ無く口にすることを辞められないほど後を引くスープも、
全てが完璧。
私はきせんのラーメンに出会って、
自分がラーメンが好きなわけでは無いと気がついた事、
きせんのラーメンが好きであって例え他に美味しいラーメンに出会えたとて、それを"美味しい"とは思えても
終わる事が寂しいものにはなかなか出会えないと知った事。
例えばラーメンというカテゴリーの食べ物を出すお店に行った時に、
そこで何かを食べて、まぁ美味しいなとは思えても、
どこかできせんの味を探している。
そしてあのお店の代わりはどこにも無いと知る。
体感している喜びと共に無くなることが寂しい、とか、
同じジャンルであるはずの他のものと相対している時に
結局面影を探している、とか、
そういう存在とはとてもすごい事だと思う。
そしてそういう存在に出会えた時に、
自分が目指すものはそういう存在なのだと思う。
そういうものが生きている中で救いになる。
昔、植物図鑑という小説を読んだ時に、川端康成が書いた物語に登場する「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」 という言葉が紹介されていた。
小説自体は野草を食べたり、興味を引く知識も披露されていたけど、恋愛小説としての色が濃くて私にはピンとこなかった。ただ川端康成所以のその言葉は確かに残るものはあった。
私がレッスンや販売の際に、扱う植物についてあれこれ蘊蓄を語る時があるけど、それはただの物として植物を見るより様々な側面を感じてもらえれば、それを覚えていなくてもいつかまたその植物や仲間に出会えた時に思い出す要素があるかもかれない、と思い話している。というよりただ話したくて話しているけど。
でも長く休眠する種子や、知らぬ間に隙間に入り込む胞子の様に、後から知らずに発芽したり増殖するものが与えられるなら、元の存在は忘れられても付随する事柄を思い出すのなら在った意義は先へ繋がるのかなと思える。
私が、移動をして年に数回しか会わないどころか数年に一度しか会わない存在として人に花を渡せても、どうせ忘れられる存在かも知れないし、花を買う側にしてみれば身近に手軽にそれなりの花を求められる存在が他に居れば、私は必要の無いものだろうなと思う。でも私の事を忘れても、私が花を渡した時の感覚や、話したことがどこかに残っていれば、その人に何かを残した事になるのかも知れないなと思う。
誰かが植物を感じた時、どこかで花を買った時、不意に私の元で花を求めた時のことや話した事が思い起こされるのなら何よりなのかも知れないなと思う。私が花の仕事を辞めても、居なくなってもそれなら意義があるのか?
生存する事を目指すのが動物も植物も菌類も、生き物としての本能なのかも知れない。なら実態が残らなくても感覚が残せるならそれで良いのかも知れない。
縦横の軸だけではこの世の事象は現せず様々な軸が相まって出来ている多次元の中にいる自分という存在は他者を知覚する事を繰り返してぼんやりと座標に近づく事が出来るのかも知れない。それに近づく為にトライアンドエラーを繰り返す事が生きる事かも知れない。
----------------------------
働く事もそういう事かなと今思います。そういう気持ちを感じさせて下さりありがとうございます。
誰かが誰かを救っている、という言葉をかつて伝えてもらった事を私は忘れません。自分の存在をあまりに無駄に感じたと時に、その言葉を思い出す時があります。
そんな事を、また好きな食べ物を食べながら尊さの中に思い出した、という事を記録します。
カタル葉
店主 史緒